ゆったりまったり雑記帳

その名の通り、雑記帳です。

教育現場から 25 FGOで古典教育ってどうですか

茨木童子渡辺綱が揃っているカルデアのマスターより。

FGOの功績

定時制高校で教えていた時、文学史の勉強をしたいという話が出て、プリントを作成したことがありました。そこで「私はアンデルセン先生が好きです」というリフレクションシートを目にして、生徒から熱いプレゼンを受け、その1年後にマスターになるという数奇な運命をたどりました。そこで思ったのは、シェイクスピアの作品を「英語科・世界史と教科横断できる」だとか、「海外文学の邦訳読み比べができる」だとか、いろいろな可能性に気付きました。FGOはキャラクター造形に史実をかなりきちんと入れてくれるので、とっかかりとして非常に有能なのですよね。

わたしの思い描く「古典」

清少納言先輩と紫式部さんが好きな私は2月6~7日のピックアップに怯えていますが、そのふたりを題材に「無名草子」だとか「枕草子」だとか「紫式部日記」だとかを読み解く授業もあっていいと思っています。というか、今構想しています。

「無名草子」では清少納言先輩と紫式部さんを比較している章段が出てきます。それをFGOをもとにキャラクター(=人物像)把握をするのですが、FGOでの描かれ方と実際の古典籍を参照しながら「元ネタはこれか」と探す授業が面白そうだなと思っています。他にも「春はあけぼの」の詳しい解説を、「枕草子のたくらみ」(山本淳子先生の著書です)を副読本として学んでいくのもよさそうです。そうすることによって、あの清少納言先輩の宝具演出の意味や意図が伝わるのかな、と。さらには各シナリオで登場したセリフ回しをテーマに、様々な考察をしていくだとか。最近のやつだと、昨年夏のイベントでは「鶏の空音」の話が出てくるので、それも絡めて百人一首に結びつけることもできそうです。

そういう「遊びから入る古典」で良いと思っていて、それは古典作品が特権的に受容されていくことだけは無いように、と願っているためです。現代の古典が読める人は、読めない人を馬鹿にすることでアイデンティティを保つ側面もある、と以前言っていらっしゃった方もいましたが、人間が古典籍に触れずに過ごすことは、文化的な退廃に繋がると勝手に思っています。古典籍で「今と同じ」「今と違う」くらいの比較から始まって、何だか面白そうだと思ってもらうこと、間口を広げることに注力した方がいいと勝手に思っています。そうじゃないと後継ぎがいなくなる。それは古典籍、ひいてはひとつの学問分野を先細りさせて自滅することになってしまう。それだけは避けたい。だから、おシェイでも清少納言先輩でも、気になったら読む、という行動を意識的に生徒の中に埋め込んでいきたいなと。要らないなら捨て去ってしまえ、古典が君の人生を豊かにするかどうかは君が決めることだ、とも思っているので、強制的にするわけにはいきませんが。楽しい古典の世界にようこそ。それでは、また。