ゆったりまったり雑記帳

その名の通り、雑記帳です。

教壇に立つその日まで番外編【ブログ・note共通記事】

明けましておめでとうございます。

昨年は記事をお読み頂き、本当にありがとうございました。

リーダブルな記事になっているのか不安な時もありますが、精進していきますので、今後もよろしくお願い致します。

今回は12月に参加した初等国語科の教材研究に関する勉強会で聞いてきた話と、大学生活最後の授業で学んだことを記録しておこうと思います。

 

大学生活最後の授業では、教員としての学びをまとめ、省察するという活動をしています。

私は初等・中等両方の免許を取得するために勉強してきたので、教育実習も3回やりましたし、科目も多く取りました。

他にも司書教諭の資格を取るために励んでいます。

学ぶことはとても楽しくて、私のライフワークとも言える活動だと感じています。

これからも教育を志す者、学術を愛好する者として「学び続ける」ことを忘れずにやっていこうと思います。

 

話が逸れました。戻します。

 

まずは大学の授業での学びを少しだけ。

 

初等・中等どちらの教育現場でも、即戦力が求められています。

即戦力が指すものとしては、教科指導力も挙げられますが、対人関係を構築する能力も非常に重要だと言われています。

特に保護者対応に困る先生が多いとか。

モンスターペアレント」という言葉も浸透している昨今、コミュニケーション能力がないとやっていけないのは何を仕事にしても同じなんですね。

理不尽な要求をしてくる親は基本的に感情で動いていることが多いので、丁寧な対応によって事態が好転することもしばしばあるのですが、大事なのは「その場で約束・判断しないこと」だと教わりました。

即断してしまうと言った言わないでさらに揉め事が大きくなるからです。

 

また、現代は「変化の速い社会」だと言われています。

(私の敬愛する司書教諭の授業を担当している教授は、「いつの時代でも変化は激しいと思うんだけどねぇ」といつも言っていますが)

だからこれからの社会はどうなるのか、そしてそこで教員はどんな役目を求められるのかを考えていく必要があります。

そのなかでワークライフバランスを管理することも大切。

生きることと仕事は一体になるという考えもありますが、私は「趣味や仕事の軸足は多い方がいい」主義なので、ひとつのことに重心を置きすぎないのがいいのではないかと。

教員は確かに厳しい仕事ですが、趣味を放り捨てて仕事をしていてもつまらないと思いますし、実際にそういう無茶な働き方で体調を崩される方も多いと聞きます。

だから「軸足を多くしよう」作戦。

たくさんの好きなもの、ことで効率よくストレスを発散したり、新しく情報を仕入れたりするほうがお得だと思います。

プロトタイプのがむしゃらにやる仕事は、あんまり魅力的には見えませんしね。

 

私が知っている先生で、頭ごなしに児童を怒鳴る人がいました。

その先生は児童たちからとても怖がられていて、なんだか学級の子どもたちがかわいそうでした。

大学でのディスカッションでその話をしたところ「怒鳴っちゃダメだよね、自分の実力がないって言っているようなもんじゃん」という意見が出て、やっぱりそうだよなぁと思うなど。

個人的には、直接心をえぐるような言葉をねちっこく、かつ容赦なく浴びせてくる先生も精神的にきつかったので、どちらにもなりたくないですね。

まずは児童生徒を受け止めて、自分が冷静になってから対処しようと思った一件でした。

 

続いて、初等国語科の教材研究の勉強会について。

 

教材研究とは、国語科では題材となる本文を読み、「何を読ませる(考えさせる)のか」をもとにして「どの言葉に注目させるのか」を考える作業です。

いわゆる「思考・判断・表現」の領域でどんな言語活動をさせるか、そして「知識・技能」の領域でどんな言葉や表現を教えるのか、を明らかにする作業だとも言えます。

ただ、「読み」にはストライクゾーンがあり、唯一の解が存在するわけではないのですが、何でも正解というわけでもないのです(誤解されがちですが)

今回の新学習指導要領で、文学を読むことは「具体的に想像させること」だと定義づけられています。

低学年は行動を、中・高学年は心情や情景を具体的に想像させられたら、その子にとっての「読み」が形成されるのだということです。

ことばの着眼点はみんな違いますし、児童生徒の場合うまく言葉にならないことも多いはずです。

そこで個々の読み、曖昧なものを教師が可視化する工夫が必要になります。

テクニックとしては「どんな? と聞く(なぜ? と聞いてしまうと答えが出なくなることが多いため)」ことや「心情曲線を描かせる」などが挙げられます。

当然、児童文学には曖昧なものや説明のつかないことがたくさん出てきます。

ファンタジーですからね。

このファンタジーの中の、うまく言えないことに寄り添ってあげて、ストライクゾーンの中に入った対立する読みを互いに認め合いながら、自分の中で納得する答えを見つけるためのお手伝いをするのが教師の役割なのではないか、ということでこの会はまとまりました。

 

私はこの勉強会で、幼少期に触れるファンタジー(嘘が本当になるような体験)をすることがどんなに貴重だったのか思い知ることができました。

私は昔から本の虫で、小中学校ではいじめられていたこともあり、小中高の12年間図書室に半引きこもり状態でした。

それでも国語の授業は楽しくて、大好きでした。

それはたぶん、「理性で分かるもの」と「理性では如何ともしがたいもの」の間で敏感にその作品の持つ「不思議さ」を感じ取って、バランスを取れていたからかもしれません。

小学生のうちにたくさん本を読んで、想像の世界で遊ぶことも大事なんだなぁとしみじみ感じました。

 

高等学校での国語教育が「論理国語」と「文学国語」に分かれ、ファンタジーを味わって想像力を高める(ということはつまり、共感性や感受性を養う)時間を削ることになってしまうことに、私も危機感を覚えています。

文学をおろそかにするとこの国の文化レベルそのものが下がると思います。

文学を読んで意見を交わしたり、作品に感動したりすることによって得られるものは、直接的には受験・就職などと関係がありません。

ですが大人になってから様々な場面で活躍してくれる能力だと思うのです。

「今この場であの作品の話をしたらウケるかな」とか、「あの作者もこの風景を見て、同じような気持ちになっていたのだろうか」とか。

そういう想像・共感の能力を高める意味で文学は学ぶに値する学問だと思います。

事実、私が発信してきた展覧会の作品はどれも文学と多少のつながりを感じさせています。

文化の担い手を養成するという意味でも、文学を選択制にして学ばずに大学へ行く生徒が出るのがとても心配です。

 

ずいぶん話がとっ散らかってしまいました。

まとめます。

 

ひとつめ。

コミュニケーション能力を高めて味方をたくさん作り、趣味など多くの軸足を持つことによって、心を守りましょう。

教員でもそうじゃない仕事の人でも同じです。

頭ごなしに怒鳴ったりネチネチ精神攻撃したりする輩も世の中にはいますが、「自分だけはこうならないようにしよう」とスルーしちゃうのがいちばんです。

そういう時こそ、軸足を多くしておけば逃げ場ができます。

 

ふたつめ。

読書、そして国語の授業による知的な活動は、共感性や想像力を高めます。

読みにはストライクゾーンがあり、何でも正解とはいきませんが、ある程度の解釈の自由があります。

そこの中で言葉にできない曖昧さを味わい、時に対立する意見を受け入れることによってはじめて人は精神的に成熟したと言えるのではないでしょうか。

そのためには教員がしっかりと教材研究をして、「何を考えさせたいのか」「そのために必要な言語活動は何か」をしっかり検討する必要があります。

いろいろな方法があるので、自分も楽しみつつ研究できたらいちばんですよね。

 

そんなところで今回のお話は終わります。

私の意見も交えた勉強の記録ということでひとつ。

それでは、また。