ゆったりまったり雑記帳

その名の通り、雑記帳です。

東京大学ホームカミングデイ企画「文学部が見てきた『女性と社会』」レポと考えたこと【note・ブログ共通記事】

元気に活動しています。桃ちゃんは本日3杯目のミルクティーに、いきなり団子を合わせて休憩しました。ごきげんよう。今回の記事は、10月17日に開催された東京大学ホームカミングデイのオンライン企画「文学部が見てきた『女性と社会』」のレポと考えたことをまとめたものです。女性の社会進出が叫ばれて久しい昨今に、ジェンダーや性差といった問題に切り込んだ面白いおはなしでした。

ひとまず、最初に宣伝! お好きな桃ちゃんの活動を応援してくださるとうれしいです。

note.com

minne.com

www.pixiv.net

fantia.jp

まず、私がこの企画に興味を持ったいきさつから。

昨年の国語科教育に関するホームカミングデイの企画に参加し、非常にエキサイティングな議論を聞くことができたので、今回も面白いだろう……と思っていたら、今巷で話題になっているあの加藤陽子先生が登壇されるとのことで、これは見なくてはいけない、日本の学術を支える屋台骨の勇姿を目に焼き付けねば、と思った次第です。要はミーハー思考。

今回は東京大学の「2割の壁」(女子学生の人数が2割以上にならないこと)や、上野千鶴子先生の講演を踏まえてのテーマ設定だったそうです。最後に記録ノートも晒しますのでお待ちくださいね。女性の社会進出が進んでいる昨今ですが、まだまだ格差の大きい現状に、人文学系の様々な学問から研究した成果を伝えあい、そこから話題を発展させるシンポジウムでした。

 

最初は社会学がご専門の赤川先生のご発表。

東大における女子学生はたったの2割ですが、どうやら短大・女子大を含めると女性の方が進学率は高いそうです。統計上の誤差の範囲もあるようですが、社会通念として「男の子は大学まで、女の子は短大まで」というのと「男の子は高校まで、女の子は大学まで」というふたつの相反する価値観があるらしいのです。ただ、上野千鶴子先生のスピーチにある通り「高学歴は望まない」傾向にあるのは確かな様子……では、東大女子は誇りを持てていないのでしょうか?

そこには「東大生」という特別視と、「女性」という特別視が重なっているという理由があるという研究を引き、大学偏差値均衡(自分の学歴と同じくらいの男性と結婚したい願望)だとか、その特別な位置から「ふつう」に戻りたい、という結論が導き出されたとおっしゃっていました。

男女の差別是正のためには、機会の平等と結果の平等というふたつの側面が必要になります。男性優位の社会で、女性は就職や就学の機会には恵まれないかもしれないけれど、寿命や幸福度といった「結果」では優位に立っているそうです。だから性差から自由になることと、その性差のなかで生きることの両方が保障されるべきだと結んでおられました。

その後のご発言で、女性は「ふつう」じゃなかったことや、女性と男性で病気のかかり方などに差が出る話などがあったのですが、それはまた後述します。

 

続いて加藤陽子先生のご発表。専門は日本史学です。

最初に「文学部は良いところ」とおっしゃっていたのが印象的でした。女性の比率が全体的に高く、また書物や言葉そのものを扱うところだから、というお話でしたが、実際は構成員全体にとって良いところを目指すよね、とも語られていました。

ただ、歴史的に見ても社会的に女性が差別されていたことは事実でした……というよりは、女性ならではの役割を与えられていた、と言った方が正しいのではないかと私はお話を聞いていて思いました。

というのも、例えば国生み神話でイザナミイザナギが言葉を発するタイミングだとか、大江健三郎の作品にみられる「天皇/皇后」のペアが再構成されて語られていることなどの具体例をお聞きしていくうちに、なんだか「女性らしさ」という「役割」が歴史的に与えられてきたのではないかな、と考えるようになったのです。女性であるから差別された歴史も当然あるにはありますが、それは「女性らしさ」を求められていたからではないかと。

まあ、その「女性らしさ」も歴史や宗教などの「大きな物語」が生んだ共同幻想に他ならないのですが……。

このお話でいちばん面白かったのは、神功皇后の逸話でした。古代から女帝は正当な皇族の継承者だったとのことで、そのなかでも神功皇后は賢く、強き女性だったということで、魅力的に感じました。基本的に強い女性が好きなのです。

歴史の流れの中で、様々な「役割」を持たされてきたのが女性だったのです。

 

続いて宗教学者の藤原先生のご発表。

先ほど「東大女子はふつうになりたい」という話を書きましたが、宗教学的に言えば「女性はふつうじゃない」のだそうです。

例えばキリスト教では「聖女か魔女か」の極端な分け方で女性を見ていたそうです。仏教でも女人禁制だったり、比丘尼はランクが下だったり、極楽に行けなかったり……女性は皆「巫女か狐憑きか」のように、極端に「ふつうじゃない」ものだと認識されていたらしいのです。

それには出産や月経といった「血の穢れ」があったからだそうですが、似たような現象が黒人差別でも見られる、というお話があり、膝を打つなどしていました。いわく、「黒人も女性も『ふつうじゃないもの』というラベリングをされた」のであると。個人的にはいちばんしっくりきたご意見でした。

人類学者には著名な女性がいるけれども、哲学者や社会学では少ない、というのも面白いご指摘でした。どうやら哲学や数学などは「与えられた才能がないとできない学問」だから、女性には無理なのだ、という考え方があったようです。言われてみれば確かに。

宗教学と聞くとなんだか怪しげな印象ですが、そんなことは全くなく、むしろ一番現代に必要な学問なのではないかと思うくらいでした。

その後司会進行の先生が、「宗教学は人類学や社会学歴史学などすべてに繋がりますね」とおっしゃっていたのが非常に素敵でした。そうです、学問は繋がって深まるのです。

 

最後に、心理学や神経科学の分野がご専門の今水先生のご発表。

心理学と神経科学は切っても切り離せない学術領域で、お互いに循環する(心理学で研究されたことを神経科学で実証したり、その逆があったりする)ものだ、というお話から始まって、男性と女性の脳をスキャンして性別を特定する研究について語ってくださいました。なんでも、脳の特定の部位の活動を見ると、そのひとが男性か女性かが5~7割程度分かるそうです。すごい。ただ、勝っているとか劣っているとかは全くなく、ただ病気のかかりやすさや自殺率などに性差が表れることはある、という結論でした。

そして重要なのは、誰にでも男性的な側面と、女性的な側面がある、ということ。それは生まれつきであったり、社会的要因であったり、様々な原因があるようですが、それらは区別できないし無くすこともできないけれど確実に存在するのだそうです。だからLGBTQの方は決して「へんなひと」じゃないのだな、と再確認しました。私自身も、恋愛対象に同性が入ることがたぶんあり得るだろうな、という思考回路と性格をしているので、「へんなひと」ではないことで救われる方も大勢いらっしゃるのだろうな、と推察しました。

 

ここまでのお話の中で、私が一番面白いと思ったのは「時代によって女性に求められた役割が異なる」ことでした。

子を産み育てることや、病気のかかりやすさなど、生物学的に変わっていないはずなのに、社会で求められるのは、時に「ジャンヌ・ダルクのような信託を受けた革命を目指す聖女」像であったり「神功皇后のような強さと理知を持った正当な指導者」像で会ったり、様々です。私たちが今直面している性差、ジェンダーの問題も、たぶん時代の変わり目に可視化されて問題になっているのかもしれないな、と思うようになりました。だからといって議論しなくていいわけではなく、新しい女性像を作り上げていくことで(もちろん社会がアップデートされるのはずっとずっと後なのかもしれませんが)少しずつ解決できるのではないかと希望が見えた気がしました。

 

原始、女性は太陽であった。平塚らいてうはそう書きましたが、レジリエンスを持った女性の姿は、今後太陽になるのかもしれません。

ここまでで長い長いおはなしは終わりです。それでは、また。