過眠症がひどいです。1日12時間寝ないと立っていられません。どうも星野です。
今回は私の「推師匠様」の話をしたいと思います。
推師匠様(おししょうさま)。
それは私を、間接的にも直接的にも教え導いてくださった方々のことです。
お金を出してでも話が聞きたい、お土産を積んでお話がしたい、並び立てるようになりたい。
そう思うひとが私の「推師匠様」です。
私には推師匠様がたくさんいるので、今回は誰の話にしようかと考えていたのですが、この度7/31に池袋で開催された内田樹先生のトークイベントに参加できましたので、私と内田樹先生のお話をしたいと思います。
私が先生の著書に初めて触れたのは高校1年生のとき。
学校図書館の隅っこにあった、『街場の読書論』という本を何の気なしに手に取ったのがすべての始まりでした。
簡潔だけれど決して簡単には理解できない、というか言語化できる理解の域を超えている、というか。
皮膚感覚で「あ、なんとなくこれってこういうことかな」と感じるような、掴めるようで掴めないような、独特の文体が私にとってはとても心地よかったです。
その感覚は今も同じで、新刊の『そのうちなんとかなるだろう』を読んでいても「あー、なんとなくわかる気がする」と、もっと深く先生のお考えを知りたくなるのです。
その内田樹先生の著書のなかで、私の人生を変えたと言っても過言ではないのが『街場の教育論』という本です。
宗教的知見、身体論、文体論、あらゆる側面からアプローチされた「国語教育のあり方」を読んだときに、「私のやりたかったことってこれじゃない?」と思えたのです。
そこからはもう思い込んだら一直線。
ということで現在教職に就いています。
先生の『街場の教育論』は今でもよく読み返していて、高校生だった頃の私が感じていた漠然とした理想から、現在初任の私が現実と板挟みになりながら模索している理想へと形が変わりました。
それでもこの先生の教えはきっと私をより高い次元に導いてくれると信じています。
また来年読み返したらきっと感じ方は変わると思います。
それがやはり、読書の醍醐味なのかなとも思います。
いろいろなタイミングで読むからこそ、気付かなかった布石に気付いて、まるで天啓を受けたかのように感じられる。
読書ってきっと、そういうものなのだと思います。
だからこそ私は読書を愛していますし、内田樹先生のことも大好きです。
盲信しているわけではなくて、参考にしたりたまに膝を打って納得したり、時に反発したりしていますが。
それがある意味正しい接し方だろうなと思っています。
今回のトークイベントでも、たくさんの質問が投げかけられました。
それらに対しアツく返答する内田樹先生のお言葉を噛み締めているところです。
新刊も半分読み終えました、人生指南として、そしてどこかで役に立つかもしれない知識として、私の記憶に残り続けるのだろうと思います。
『そのうちなんとかなるだろう』は、内田樹先生の半生を綴ったもので、幼少期の頃から(それこそ今の私などには想像もつかないほど)波乱万丈な人生を歩まれていることがわかる一冊です。
ここから私が得た教訓は、「自分の直感に従うこと」でした。
先生は「自分が嫌だと思ったものは何が何でも嫌」というお人だそうで、たくさんの決断をするなかで「嫌だ」と直感したものとは距離を置いていると書かれていました。
そういう「好悪に対する自分なりの尺度」を感覚的に理解するということや、運命に導かれるように「この人についていったら面白そうだぞ」とセンサーが反応する「勘の良さ」「嗅覚」は本当に尊敬に値します。
この本から私もそういう「感度の高さ」を学べたらいいなと考えています。
そしてそれを今接している生徒、これから接する生徒、大切な友人たちに伝えていけたらいいなとも思います。
相互扶助・贈与の関係で、みんながハッピーになることが、きっと内田樹先生の願っている理想の姿でしょう……と勝手に推測しております。
内田樹先生の今後のご活躍を祈念しつつ、ここでおしまいにしようと思います。
それでは、また。