ゆったりまったり雑記帳

その名の通り、雑記帳です。

文章を書くことについて

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」

インターネット黎明期に生まれた私には、これを書く義務がある。フルーツサンドをつまみながら書いております。ごきげんよう、桃ちゃんです。

インターネット文学

皆様は「ケータイ小説」というものをご存知でしょうか。若い世代の方は知らないかもしれませんが、恋愛小説などをガラケーの時代から入力して、共有していたのです。なんというか、私の「こじらせ」はそこから始まった気がしています。

正直自分がこうやって、何かを書くようになるとは思っていなかったのですが、それは「ケータイ小説」の持つ「承認欲求」が穢く見えたからです。自分の欲望を満たすために文字にすることを、当時中学生くらいだった私は嫌なものととらえていました。

ニコニコ動画に浸かった時期

皆様もご存知であろう、コメントを画面上に表示できるニコニコ動画にどっぷり浸かった中高生時代を送った私。コメント機能は正直使わなかったのですが、考察を書いている人や「ここがすき」というセリフだけでも共感できるなあ、と思うなど、わりと寛容になってきました。それと同時に、少しずつ自分の中にもあのとき穢く見えた「承認欲求」が巣食っていることに気付いて、悔しくもなりました。自分一人だけが高尚な人生なんて、つまらないし非現実的で、それこそ傲慢なのにね。動画を見て、そこから生まれたコメントに、動画の尺を使ってお返事したり、投稿者みずからコメントを残したり、そういう双方向のやり取りを見かけることも増えて、生身の人間がそこにいて何かを主張しているという感覚、いうなれば「血を流してでもぶつかりあって傷を残してわかりあう」世界があると知りました。それは根源的なコミュニケーションのあり方でもあるのかな、とも思います。無傷でいられるコミュニケーションというのは存在しない、身銭を切って相手と共通理解を作るところから始めると書いたのは確か内田樹でした。たぶん、流れる血の匂いを穢く感じた私は、成長して「殴り合って理解する」という社会におけるイニシエーションを通過し、やっとコミュニケーションの世界に足を踏み入れたのです。

私が書く「存在証明」

20歳でうつを発症した私は、コミュニケーションを嫌がって、誰とも関わりませんでした。言葉にすると嘘になるような、相手を傷つけるのが怖くて、自分も傷つきたくないという貧弱で脆くて幼稚な精神。けれどそれを言葉で殴って解決してくれたのが友人であり、Twitterで交流を持ったひと、実際にお会いした、お話した、そんなたくさんの先輩・同輩・後輩たちでした。趣味も広がって、その趣味の話を受け入れてくれたり、ぬいぐるみコレクションの写真に「いいね」を押してくれてうれしかったり。殴り合いの修羅場も見聞きしましたが、そこまでキツイものには幸いにしてまだ参戦していません。「情理を尽くして語る」――これも内田樹の言葉ですが、どうにかして落としどころを見つけて、お互い認め合える、そういう自己承認と他者を受け入れる心の余裕が生まれたのかな、とも思っています。だからこそ、私は今日もこうして筆を執りました。私の言葉のマシンガンで誰かの心の壁をぶっ壊して、その人と自分の世界を広げる、お互いの世界の解像度を上げる、そんなコミュニケーションができたらいいな、なんて夢見たりもしています。

コミュニケーションは傷つけるものでもあるかもしれませんが、悪意のある言葉より、誠意のある言葉を、誰かを言祝ぐ言葉を紡いでいたい。だから私は筆を執る。