ゆったりまったり雑記帳

その名の通り、雑記帳です。

汝はリテラシーあるオタクなりや?【note・ブログ共通記事】

有給が取れたのですが、やっていることがほとんどお仕事関連の趣味です。

お仕事がたのしいのでいいのですが、あんまり中毒にならないようにしたいと思います。

どうも星野です。めちゃくちゃ更新していますね。

 

今回はこの間夜な夜な考えていた、「オタク」ってなに? という話をしたいと思います。最終的な着地点はリテラシーになったので、そちらに興味のある方も是非。

 

皆さんは「オタク」ということばに、どんな印象を抱くでしょうか。

辞書で調べたのですが、「ある特定の分野やものごとに過度に傾倒すること、あるいはその人」と定義され1980年代頃から使われ始め、ゲームや漫画などの虚構性の高い世界に傾倒するひとのことを指すそうです(出典:ブリタニカ国際大百科事典)

その昔は「オタク」イコール気持ち悪い、というステレオタイプがあった(少なくとも私が中学生くらいの頃まではそういう空気があった)ので、この表現は蔑称なのかと思いきや、最近はかなりライトに「オタク」ということばを使うようです。

 

私も自他共に認めるオタクなのですが、じゃあ「何に傾倒しているの?」と問われてしまうと、返答に窮することに気付いてしまいました。

 

ゲームやアニメ・マンガも、芸術も音楽も、教育も、ぜんぶ確かに好きなのですが、その「好き」という気持ちをどう表現したらいいかわからなくなってしまうのです。

 

私が何故ゲームをし、アニメを視聴し、音楽を聴き、足繁く美術館に通い、こうして執筆しているのか。

それは半分、義務感……に近いものがあるように感じています。

ゲームもアニメも、娯楽とは少し違って、「日々こなすタスクのひとつ」であり、そこから何かを得ようとするものなのです。私にとっては。

 

それは本当に心から愛していることになるのか、と疑問を抱いてしまったのがそもそものきっかけなのですが、突き詰めて考えていくうちに「アウトプットができる趣味ほど長続きする」という自身の傾向を自覚するようになりました。

 

どういうことかと申しますと、例えば美術館に行ったり1本ゲームをクリアしたりしたとします。それを日記やこうしたブログ、Twitterなどで「ここが面白かった、こんなことを考えた」と言葉にして、多くの人に伝えていくことが楽しいのだな、と。(自己顕示欲がないとは言い切れませんが、「応援したい」という一心で書いているものや、思考の整理・足跡として書いているものも少なくありません)

 

ああ、私はおそらく「考察すること」に情熱を燃やすタイプなのだな、と今になってやっとわかりました。

たまに見かけますよね、掲示板とかで「このシーンの○○の発言は××の伏線になっていて……」と語る人。私たぶんあのタイプです。

自身に知識がないので、インプットしたものから独自にいろいろと考えていくことがたのしく、そして自分の仕事(教職)にも繋がる、そして教職も考察がたのしくてたまらないという、趣味が仕事な人間なのでしょう、おそらくは。

 

そのタイプのオタクが気を付けなければいけないな、と思うことを、自戒と反省を込めて記していきます。

 

まず私はよく言われるのですが、「自分の中の世界にこもり過ぎる」ことがあるかと思います。

昔「君の考察は自分に酔っているだけだ」と言われたことがあります。(数年前の出来事ですが未だに引きずっていますし、この発言で傷付けられたことを許してはいません)

確かにそうだよなあ、と納得した側面もあり、それ以来意識的にそうならないよう調査を徹底的にしたり、思考を情理を尽くして語ったりすることを信条としてきました。

自分の知識だけで(あるいは思考の枠組みだけで)語ろうとすると、どうしても片手落ちになります。というか、独りよがりで誰も得しないとおもうのです。

だからこそ「他者の意見を効果的に取り入れる」活動を定期的にしたほうがいいと考えていて、アンテナの感度は常に高く保つことを心がけています。

私の行う授業でも、生徒と双方向のやり取りを重視するのはそのためだろうな、と。

 

このとき大事になるのが「リテラシー」です。

メディアリテラシー、科学的リテラシーなど様々なことばがありますが、基本的には「自分が情報を目にしたり耳にしたりしたときに、それをまず疑ってさらに情報を集め、そのうえで判断を下すこと」と「判断を下すために自分の中で情報をかみ砕き、様々な思考のフレームに当てはめること」が求められる、ということなのではないでしょうか。

そういう社会に生きている、私のような「考察型オタク」は、この特にこの「リテラシー」を高めなくてはならない(高くしないと困る)と考えています。

何かを語るためにはその語りたい内容について様々な側面から分析し、語るためのことばを自分で見つけるか、あるいは磨かなくてはなりません。

そういう国語教育をしてみたいな、とも思います。

 

様々なタイプのオタクが増え、語られる内容(コンテンツ)の多岐にわたり、昔に比べたら情報量も圧倒的に多くなっているからこそ、自分を見つめなおしたり情報の受け取り方・発信の仕方を見直す必要があるのです。

 

皆さんもたまに自分の深いところへ潜って省察すると、思わぬ発見があるのではないかな、という提案でこのお話を終えたいと思います。

それでは、また。