ゆったりまったり雑記帳

その名の通り、雑記帳です。

芸術と宗教と機能性について(ラスコー、「沈黙」から)

業務も学業も通常営業になった(または一段落ついた)のに、一向に休みができないのはどうして……どうも、星野です。
今回は過去に自分が行った展覧会から「芸術」と「信仰」について語らせて頂きます。
というのも、昨年度末に美術(図画工作)の理論を学んだ授業のテストがあったのですが、その時に出た問題が「美術とは何か」という究極的な話だったんですね。
それについて思うところを述べていきたいと思います。
 
まず、その授業の先生がオススメしていた、ラスコー洞窟展(上野・国立科学博物館)に行ってきまして、そこで考えたことなどから始めていきます。
 

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ラスコー洞窟展 牛の壁画
 
その展覧会を通して突き付けられたテーマが、「芸術の原初にあたるものとは……芸術の意味と目的は何だろうか?」というものだったと感じています。
芸術の原初としてラスコーの壁画があると仮定するならば、描いた人は何を思っていたのか?    何のためにそれを描いたのか?    と、先生から問いかけられていたような気がしました。
 
それは自分がそこにいたという記録?
後世に残すという思い?
 
どのみち何らかの欲求を満たしたいために描かれたものである、ということは確かなようです。
 
展覧会では、ナスカの地上絵との関連が示唆されていました。
ラスコーの壁画には「トリ人間」と呼ばれる絵があります。それは鳥のような嘴を持っているのに胴体は人間という不思議なものです。
これが何を表しているのか正確なところはわかっていないようですが、何かのシャーマンではないかと言われています。その「トリ人間=シャーマン」説から、特別な力をもった人が象徴的に描かれているのでは?    とされていました。ナスカの地上絵にもそれに似た存在が確認されているとのこと。ラスコーとナスカは遠く離れているのに……どうして似たようなものが描かれているのでしょうか。比較神話学で言われるような、洋の東西を問わない人間の根本的な共通性なのでしょうか。あるいは人類が移動した結果先に出来たラスコーの遺伝子が、ナスカにも引き継がれたのでしょうか。歴史学は専門外なので何とも言えませんが、謎が深まりますね。
 
細かいところ(鹿の角等かなり小さいもの)に絵を彫りつけること、洞窟の高い壁面に絵を描くことをネアンデルタール人はしていたようですが……そのような細かい作業や危険な作業の背景には何があったのか、というのも争点になりました。

 

やはり絵には特別な意味があったのでしょう。
ちなみに、象徴(シンボルマーク)の存在がこの頃からあったそうです。言語の萌芽かも?    と思って少しワクワクしました。
 
この壁画から、実生活から生まれた美……機能性と美の両立の原初を感じました。「機能性と美の両立」とは(私が半期間習ったことと持論を複合させたものですが)概ね以下のようなことです。
 
もとは機能性/宗教性/呪術性が原初にあり、ラテン語で言うところのアルスあるいはテクネー(技術)と、人がそこに“いた”という証を残したい気持ちを包括したものが「機能性と美の両立」のもとになるものです。美はあくまでも後付けだろうな、と私は踏んでおります。刀剣や茶器なども使われることを前提としており、そこに美を見出だすのはあくまでも機能性の後にしか来ないのだろうと考えています。
 
芥川龍之介川端康成が書いた「末期の眼」という言葉がありますが、美しいと感じるのは人間の感性に依拠するということを象徴的に表しているように思います。
それを考え合わせると、美しいと感じること、何を以て美とするか、機能性のなかに美を見出だすかは個人の判断に委ねられるということになります。
 
そこで、冒頭のテスト問題に戻ってみましょう。『美術の特徴について持論を述べよ』というのが確か全文だったと思うのですが……これについて私は、こう回答しました。
 
美術とはことばの仕組みと似ています。
それは世界を切り取り、価値表象(自身の美意識に照らし合わせて何を美とするか表現)するためのツールであるという点が似ているということです。
芸術とは集約してしまえば一篇の詩であり、みそひともじのなかにも美術の魂は宿るのです。
例えば、刀をはじめとする道具や、宗教芸術(儀礼)等は機能の副産物として美があるわけです。
それのどこを美しいと思うか、どう価値付けるかは個人の勝手であり、美しいと広く一般的に思われているものも時代や多くの言論が形作っていると言って差し支えないかと。
 
そこから少し理論を拡張させると、もともと美や芸術とは、何かを“信じる”ことから始まってる気がしてきませんか?
伝説/伝承を引き継ぐためのもの、祝詞/供物としての美しさ(呪術的装飾)もすべて見えないものを“信じる”ことから。
芸術の原初はそこにあるのではと考えています。
 
そんなことを思い始めるきっかけになったのは、M・スコセッシ監督の映画「沈黙-サイレンス-」(2017年)を観たことです。
 
遠藤周作の不朽の名作を映画化したものですが、私は恩師の先生から同氏の「深い河」を卒業祝いに頂戴しており、それも繋がってはいるのですが、長くなるのでここでは省略。いつかきちんと言葉にします。
 
戦国時代(15~16世紀)、師匠にあたるカトリックの司祭が日本で棄教したという知らせを受け、ポルトガルから若い司祭ふたりが日本に渡り、そこで何を経験したかを描く……というのが「沈黙」のあらすじです。
 
所感として宗教とは「人がすがりたくなるもの」、あるいは「救いを与えてくれると錯覚するもの」だと思います。錯覚と言うと怒られそうですが、実際に救う/救われるのは人間同士だと思うのです。
けれど、信じている人にはすべて「神の導き」に見える。
要は神は心のなかにいるので、周囲を鏡として映し出されるし「沈黙」も啓示も与えることができるのではないでしょうか。
 
じゃあ「信じる」とは?     となると思いますが、それは「常に思い描き続けること」だと思います。または、最後まで見捨てないこと。例え神(あるいは信じているもの)に「沈黙」されたとしても、究極的にはたとえ棄てることになったとしても、そのものに対して想いを馳せ続けることだと思います。これはすごく難しいですよね……貫き通す「愛」そのものだから。でもそれができる人は強いし、気高く美しいのでしょう。
 
価値を信じることが美につながり、その美は宗教や機能性のなかにも宿るのだ、という話でした。
なんだか迷走しましたが、誰かに伝わっていればいいなと思う次第です。
それでは、また。