芸術の秋、楽しんでいますでしょうか。どうも星野です。
今回は2019年10月19日(土)に東京大学のホームカミングデイ企画として開催されたシンポジウム「ことばの危機」について書きたいと思います。
大教室にぎっちり人が集まっており、熱気を感じる会でした。
この会の主な論点は「教育制度改革」です。
例えば国語は論理国語と文学国語に分かれるとか、英語は四技能重視にシフトするとか、もっと言えば新共通テストの是非はどうなのかとか。
そういった諸課題を、英語やロシア語などの海外文学、哲学、国文学など様々な方面の権威が議論するというものでした。
細かいことは(汚い字で申し訳ないのですが)メモの写真を参考にしていただいて、私はそこから「ひとりの教員として考えたこと」を綴っていきます。
読解力低下、と昨今ではよく叫ばれていますが、何も今に始まったことではないと私は思います。
教科書が読めない子どもたち、などという書籍もありますし、皆さんの関心が高いのはわかりますが、では私より年上の方が学生だった頃に、教科書って真面目に読めていましたか? と逆に疑問をぶつけたいです。
おそらく現在と同じで、よく出来る子と苦手な子がいるのです。
教科の得意不得意、先生との相性、学校の教育方針。様々な要因があります。
それを教育のせい、というか教育の質が悪くなったかのように語られるのはちょっと困るなと。こっちもベストを尽くそうと頑張っているひとが大半ですので。
もちろん時代によって必要な知識や技能は多少変わるところもあるでしょう。しかし根本は変わらないと思うのです。
批判的に、筋道を立てて、多角的に、思考して判断する。それを教え、鍛えることだけは変化していないのではないでしょうか。
そういう力を養成するために、初等教育では基礎的なことを学び、中等教育ではそれらを応用しながら教養を身につける。
社会に出て何かの役に立つものや、役に立つかはわからないけれど何かの慰めになるもの(すべては無駄ではないのです)を教えていくのが教育なのだと考えます。
半分の高校生が就職する現状で教育にできることは限界もあると思います。
教育に求められることが極度に大きくなっている気もします、社会全体で育てるはずの子どもたちを学校だけに押し付けているような。
生徒は学校だけで成長するわけではありません。塾で本音を漏らす生徒や、習い事・アルバイトでいきいきと何かに打ち込む生徒もいます。
そういう子どもたちを支えるのはその集団の構成メンバーである大人や、周りの先輩・後輩・同期でしょう。
大人の働く背中や、真剣な表情を見て子どもたちは成長するのだと私は思います。
そして社会の構成員としてまた様々な研鑽を積んで次の世代を育てるのです。
生涯学習も社会の構成員を一生涯サポートする仕組みとしてあるべきで、ほぼ全入となった高等学校も社会に出る一歩手前の段階として、教養の「種まき」をするのだと考えています。
教養はおそらく、使えなくてもその人を救うことができるのです。
文学は役に立たないとか、契約書を読むほうが実用的だとか、そういうレベルではないのです。
いつ芽吹くかわからないけれど、何か将来に花を咲かせ実をつける可能性のあることはすべてトライすべきだと思うのです。
しかしその制度を破壊するような新共通テスト、そして新学習指導要領の理念は、まず私たち現場の教師が止めるか方向転換させなくてはならない。
教育は工場とは違います。画一化する面もありますが、子どもによってどう教育の成果が出るかはわかりません。
そこを失念してはいけないのだと、生身のコミュニケーション(魂の交流)を大切にすべきなのだと……このシンポジウムで感じました。
私などまだまだひよっこで、うまくいかないことも多々ありますが、本質を見失わないように教えていくしかないです。
その決意が新たになったので、行ってよかったです。
新共通テスト・新学習指導要領については今後も触れていこうと思うので、気になる方は是非チェックしてください。
それでは、また。