ゆったりまったり雑記帳

その名の通り、雑記帳です。

一生つきまとう、学歴の話

毎日20分で書き上げています。どうも星野です。仕事納めだった今日は、教育の話をしようと思うのですが、昨今話題のキャリアパスポートについてと、私の持病についてを絡めて書いていこうと思っています。あとは学びなおしや社会の構造の話も。この記事を読んで、参考になったなーとか、いいなと思って頂けたらサポートをお願いします。

事の発端と教育の変化に対して思うこと

私は二十歳の頃、統合失調症うつ病の併発でカウンセリングを受けながら大学で学んでいました。もうその時は地獄のようで、毎日しくしく泣いているし、音はわんわんと耳鳴りを起こすほどの音量で鼓膜に響いてくるしで、本当に死ぬかと思いました。今日これとは違う症状の方のツイートを拝読してこの記事を書こうと思ったのですが、それとキャリアパスポートは何が関係するのかって、「一生自分の学歴がつきまとう」ということなのですよね。
私の場合、発病前と比べると卒業時のGPAは当初より3~4割ほど減っています。何って、朝起きられない・電車に乗れないから授業に出られない、そしていつも出席回数ギリギリ、わけもなく泣いてしまうから発表もできない、となったら当然評価は下がります。合理的配慮をこれでもかとしてくれて、教授陣はよく単位を出してくださったなあと感謝していますが、他の大学だったら辞めさせられていたかもしれないと思っています。国公立大だったから学費は多少安かったけれど、それでも1年留年することを決めたときは親と非常に険悪になりました。ええ、そりゃもうもめましたよ(卒論と就活と教育実習を同時進行でやったら、お前は間違いなく発狂するからやめろ、とみんなに止められたので、その決断に至ったのですが、両親は私の病気に対する理解が無いので「根性の問題だ」とか「やる気を出せ」とか言われました)。
キャリアパスポートを仮に導入したとして、もしも病気や障害で「昔みたいにばりばりなんでもこなせる状態」でなくなったら、その人は一生「できないひと」「レベルの低い存在」で止まってしまうかもしれないですよね。現にいま病気を伏せて転勤のために動いていますが、成績証明書を提出した先ではもうほぼ百パーセントの確率で落とされています。それは私が病気になったのがいけないんですか? みんなはならないんですか? 自分がなったとき誰も助けてくれなかったら、仕事がもらえなかったら、社会に出ることを許されなかったら、自己実現はどうなるんですか? ということを言いたいのです。

教育に対して吠え立てる負け犬

今小学校で勤務している友人いわく、「キャリアパスポートは目標と反省みたいなもの」と言っていますが、それが中学・高校と学齢が上がっていく過程でどんどん凶器と化していくと私は思っています。部活の記録を残したいのに、怪我をしたら? 奨学金を借りたいけれど家の手伝いをしないといけないからボランティアや生徒会活動、委員会活動ができなかったとしたら? それが枷となって就職活動にまで重くのしかかってくるのはその子(当事者)にとってもつらいですし、何より「教育の敗北」という感じが極まっています。
教育は人"材"育成のためのものではありません。人間は素材や部品ではありません。同じものはふたつと無い。だから個人の性格や得手不得手によってできることが違うし、それを加味したうえでそれぞれ好きなな場所で活躍していけるようにするのが教育なのではないでしょうか。「人生」の一部を引き受けるのです。昨今の教育改革は、その視点が抜け落ちていると思います。
私は中学校と高校で現代文や古典を教えていますが、「自分にはそんなもの必要ない」と言わんばかりに授業をないがしろにしてくる不届き者にも出会いましたし、どうしても進学したいから必死に勉強するんだと誓って熱心に質問に来る生徒にも出会いました。別に不届き者が悪だと言いたいわけではないのです(いや、授業を受けてくれないのは腹立たしいですけれども)。その子にはその子なりの人生プランがあるのでしょうし、計画が無いならそれまでで、私の救える生徒ではなかったのだと考えるしかありません。「どんなヒットソングでも 救えない命があること いい加減気付いてよ ねえ」と我が最愛のロックバンドUNISON SQUARE GARDENは歌っていますが、そのあとに「だから音楽は今日も息をするのだろう」と続けています(引用:「シューゲイザースピーカー」2014、アルバム「Catcher in The Spy」収録)。同じことが教育にも言えると思うのですよね。どんなに古典の魅力を語っても、響かない生徒は一定数いるのだろうし、逆に違うアプローチをしたら古典に目覚めてくれるかもしれない。その可能性があるから教育そのものは中断してはいけないし、私はその面白さに取り憑かれているから諦めたくないと思うし、新たな授業実践や柔軟な指導に挑戦することを止めてはいけないのだと、前述の歌詞に撃ち抜かれた私は考えてしまいます。
学びなおしもそうで、学費が高すぎるのも問題だし、社会全体に余裕がなくて「研究すること」を「利益に繋がるもの」と解釈して、その深淵を覗く営為を軽視しているような感じがします。研究は予想を立てても結局どんな成果が出るかはやってみないとわかりません。そこに投資をしないのであれば、どんどん明らかになることは絞られてきます。研究したことで「あり得たはずの未来」が消えていくのはもったいなさすぎる。私なぞは駆け出しの教師の端くれで、何の成果も残していませんが、それでも教育をだめにするものは分かります。無駄を省きすぎているのが今の社会の息苦しさなのではないかと思うのです。

「できること」が増える社会に

私も最初の方で書いた通り持病があって、なかなか社会で即戦力として働くことは難しかったです。けれども今少しずつ寛解していて、活躍するための環境を整えていくことで社会に貢献できるなあと実感しているところです。頑張った「過程」も「結果」も考慮することって、できないのでしょうか、ということが言いたくてここまで書いてきました。教育なんてとっくのとうに終えているから関係ない、ではなく、とんでもない悲劇を回避するために、ちょっと考えてみてほしいな、という話でした。それでは、また。