ゆったりまったり雑記帳

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「天気の子」を観に行ってきたよ考察【note・ブログ共通記事】

また暑くなったのは一体何故なのか。

どうも星野です。今回は超絶遅ればせながら映画『天気の子』(2019,新海誠監督)を観てきまして、その考察がしたい!!   という強い衝動のもと執筆しております。

青春ど真ん中の天気の子考察、始まります。

 

まずはあらすじ確認から。

異常気象で大雨が続く中、16歳の帆高という少年が、親に黙って上京してくるところから始まります。

そして転がり込んだ編集社で住み込みバイトをしていたら、ヒロインである陽菜という少女に出会います。陽菜には「祈るだけで天気を晴れにする」という能力が備わっており、そこから一気に物語が展開していきます。

 

今回の「天気の子」は前作「君の名は。」に比べいくつかの相違点がありますが、だいたいの話型は同じだと考えられます。

 

共通点

①少年と少女の淡い恋と、それを引き裂く運命

②少女に不思議な力が備わっている

③最終的に運命や世界の理を変えてしまう

 

日常からの逸脱→楽しい日々→突然の終焉→それを取り戻すための少年の冒険、というおおまかなストーリーは同じです。

 

相違点

①少女の能力は遺伝ではない

②世界を変えたことを少年少女が悔やんでいる

③大人の理屈が描かれている

 

圭介さんや刑事さんたち「大人」と帆高たち「子供」の対比がしっかりと描かれているところが前作との相違点だと思われます。

大人なのにどこかこどもっぽい圭介さんと、子供なのにどこかおとなっぽい凪くんのアンバランスさが終盤の代々木の廃ビルにあるお社に向かうシーンで顕著に現れていました。

 

テーマはなんだろうな、と思いながら鑑賞していたのですが、おそらくは「挫折すること」なんだと私は思います。

というのも、大人の世界の理屈にとことんまで押し込められて、最後はハッピーエンドだとしても帆高は捕まりますし、天野家のふたりも帆高とは離れ離れになります。大人の都合によって、3人で生きることを否定されるのです。

そういう挫折経験があるからこそ、最後の圭介さんの「世界を変えただなんて勘違いするな」という台詞が活きてくるのだと感じました。

世界はそうそう容易く変わるものではないが、変わったとしてもそれは君たち子供の責任ではない。大人はただ受け入れるのみ。

そういうメタメッセージがあったのではないかと思います。

そんなことを言う圭介さん自身は、陽菜が消えて探しに行きたいと泣きながら訴え、実力行使に出る帆高をいったんは否定しますが、その後サポートする役回りになるので、理屈の通った大人というよりは「大人になりきれない、挫折した存在」として語っていたようにも思えます。

 

もうひとつ触れておきたいテーマが、神話性です。

今回陽菜は代々木の廃ビルの屋上にあるお社で祈ったことにより巫女として天気を操る能力を得るわけですが、祈るという行為とその代償は昔から多用されてきたモチーフです。

何かを望めば代償が必ずある。

CLAMP先生の作品『XXXHOLiC』でも侑子さんがおっしゃっていましたね。望みには必ず対価があると。

今回は前回の『君の名は。』と違い血族には関係ありませんが、巫女として選ばれた少女が消えるのは同じ展開です。

鳥居をくぐること、そして祈ることが重なって彼女は巫女になったのでしょうが、巫女が神々(今回は気象ですね)の生贄として連れ去られるのは、万葉の頃からある文化です。

それはもともと神に仕える巫女(女性)を男性が奪う、という形での結婚が、飛鳥奈良の時代の考え方だったという説があるところから持ってきたものです。

民話の話型でも「女の子は他の外部装置を使わないと日常に戻ってこられない」という説(たとえば桃太郎は自ら鬼退治に出かけて帰ってきますが、赤ずきんなどは猟師に助けてもらわないと食べられたまま、ということです)があり、それを踏襲している感覚はありました。

 

新海誠監督作品が大きくヒットするようになった要因として、この世界的にみても文学や民俗学などの正統を継いでいるからなのではないかなあ、と思いながら鑑賞していました。

 

正直瀧くんと三葉ちゃん、てっしーたちがまたスクリーンに映ったときは泣きました。

あと今回もRADWIMPSが楽曲提供していますが、曲の入れ方が反則です。

ちょっと涙腺の弱い方は注意したほうがいいです。

テーマ曲をふたつ、思いっきり挟む形で入れたのはさすがのひとことです。

音楽が与える影響も馬鹿にはできません。

 

またすべての行動は無理のない伏線になっており、たとえば陽菜がネギや豆苗を育てているところは生活の困窮を示し、帆高のネット活用が後の展開に大きく関わるなど、そういうメタな見方をするのも楽しい作品でした。

 

何が言いたいかというと、新海誠は作品の正統性を今回の「天気の子」で証明してみせた、ということです。

次回こそオランジュリーに行くので、しばしお待ちを……

それでは、また。