ゆったりまったり雑記帳

その名の通り、雑記帳です。

音楽と異文化交流について

花粉症がひどいです。目が痒い。
どうも星野です。
また面白いことを考えていたので書いていこうと思います。

私は月に一度TRPGを高校時代の友人とプレイしています。今月はその企画のうちのひとつとして、みんなで自分の好きなものをプレゼンする大会をやりました。
感想は「相手の原点を知れた気がした」「自分がどうしてそれを好きなのか、自分でもう一度言語化することによって再認識できた」「なんでTRPGでそういうプレイスタイルを好むのかがわかった」と好評でした。
それをまたやりたい、という話は置いておいて。
その前に別の友達とカラオケに行って、「この歌を教えてあげたくて」と言われたことも重なって、なんだか考察してみたいと思ったのでした。

そもそも音楽が共有される瞬間は半ばお祭り状態だと考えられます。
言ってしまえば地縁的な結合感を有しているのです。
「この曲に合わせてリズム取ってたらお前も仲間」的な。だから盆踊りとかそれに類する行事があるのでしょうけれど。
音楽は芸術であり、かつては呪術でもあったはずです。とするならば、音楽には口承文芸を支える役割や祝福の意味合いがあったと考えられます。文明と共に発達してきた音楽は、極めて価値のある、文化的な営みのもと生まれているのです。

今度は文化、ということにフォーカスを置いて考えていきます。
音楽の共有は異文化交流の一種だ、と何かで読んだことがあります。
確かにな、と思いました。
自分のアイデンティティーの形成に(ジャンルやアーティストに帰属する意識を生むという意味で)関わるのだから、どんな音楽が好きかは文化的背景と言っても過言ではないでしょう。
「私この曲好きなんだよね」とプレゼンすることは、その人の持つ文化コードの表出。私の聴いてる音楽はこれだよ、こういう音が好きって主張することは自分を改めて知ることと同義。
だとすればそれは時として、勇気のいることになると思いませんか?
マイノリティだったら「へんなの」って言われておしまいになって、それで自分がどれだけ傷つくかなんて想像に難くないですよね。
事は音楽だけに限らないと思います。うちの肉じゃがの味はこう、買ってるお茶はこれ。着る洋服はこれ、読んでる雑誌はこれ。お気に入りの作家は誰、苦手な季節はいつ。
全部が自分と同じ人なんて、この世には存在しないはずです。あってニアリーイコールな存在だけ。
つまり、生活を彩るすべてが文化を構築する要素になるのです。と同時に、人は何かに帰属して生きているからこその軋轢もあるのだと気づきました。
同じブランドの服を着ている人には親近感があるのも(私は「マイノリティ」であることに喜びを見いだすタイプなので、へこみもするが確かに嬉しくもなります)、応援しているサッカーのチームが負けると相手が憎くなるのも、その軋轢の結果なのでしょう。個人の気持ちの問題じゃなく、大きな共同体で動いている感情の話です。
異文化交流に話を戻すと、どんなものに対しても「これ好きなんだよね~」って言えることが示す心の強さに、私はいつも感動します。
何かが好きって主張している人は輝いている気がするんですよね。好きな気持ちに理由はいらないけれど、好きなわけを話せたらすごくカッコいいと思うのです。たとえ否定されても「お前のなかではそうなんだな! 私のなかではこうだ! あばよ!」と柳沢慎吾ばりに言い放てる人に憧れて、今日も私は我が道を突き進む……という。

今回は短めの考察ですが、誰かにも共有したくなりました。
やっぱりこれも、異文化交流。
言葉によって伝えていくことの面白さを感じているところです。
また考察が出来たらこちらに書き込みますので、気長にお待ちいただければと。
それでは、また。