お盆休みが取れました。明けたら6連勤だけど。
どうも星野です。
今回は最近ハマっているハンドメイドから、考えたこと感じたことを自由に述べていけたらなあと考えています。
ご縁がなかった方も、これを機にレッツトライ。
私がハンドメイドの面白さに気付いたのは、2017年5月に開催された「デザインフェスタVol.45」に参加した時のことです。
友人がその前のデザフェスに行って「楽しかった」と言っていたのを覚えていて、私も行ってみようと思ったのがきっかけでした。
端的に言うと、あそこはヤバいです。
アクセサリーから家具までありとあらゆる一点物が並ぶ夢の空間。
ハンドメイド作家さんは、「自己表現」の手段としてハンドメイドを選んだのかもしれませんが、「なんでこういうの売ってないの!?」という憤りを経て「よっしゃ自分で作ってやろう」と思い立った方も少なくないはず。
初めて行ったデザフェスでたくさんの作家さんとお会いし、お話もし、モノづくりに対する情熱を感じ取ったことで、私の知的好奇心がむくむく湧いてきて、「私もやってみたい」と考えるようになったのでした。
実を言うと私は、小学生の頃から家庭科が大の苦手でして。
糸を通したり玉結びをしたりするのがもう大変で、すごく嫌いでした。
当然成績も低かったです。
とっても不器用だったんですね。
そんな私でもできるのかと不安に思いながら、「師匠」と呼ばせていただいている友人の手ほどきを受け、初めて手縫いでテディベアを作ったのが去年の冬。
不格好であまりうまくいかなかったかもしれないけれど、小学生の頃の自分より確実に上達していて、「やっぱり大人になってたんだ……!!」と感動したのを覚えています(笑)
その後編み物も始め、簡単な縫い物なら自力で出来るようになったある日。
私は気付いてしまったのです。
「ハンドメイドができるってことは……世界にひとつだけの、自分オリジナルの推しのグッズが作れるのでは!?」
「衝動買いしまくっちゃう私だけど……作ればもっと安上がりに、自分ぴったりサイズの、自分好みの洋服が手に入るのでは!?」
そんな不純な動機から、今もイベントに着ていけるようにスカートを縫っています。
ハンドメイドを始めたことで繋がった人や、できるようになったことなど、たくさんあります。
正規価格で買えば4000円のイヤリングを、324円で自作したのは伝説。
お金じゃ手に入らない達成感みたいなものが得られて、すごく楽しいです。
手仕事、というのはひとつの満足感が目に見える形で手に入ります。
ひとつのものが、自分の手で作り上げられていく達成感。
多少不格好でも愛着がわきます。
大切な思い出にもなります。
だから精神衛生上たいへんよろしいのですね。
嫌なことがあっても、ハンドメイドしている間は忘れられるのです。
そこから派生して、最近読んでいた身体論のお話をちょっとだけ引用します。
まずは三浦雅士さんの「考える身体」から。
この評論集では、「身体は精神と不可分である」ということを強調しています。
感動は身体で感じるもので、どうしても言語化しようとすると単純化してしまうとも。
(オタク仲間がみんな自分の推しについて「尊い……」しか言えなくなる理由が分かった気がしました)
「考える身体」では「舞踊」を軸にして、文学(主に詩)や絵画、音楽といった芸術がすべて身体的な知覚から派生してきたと論じています。
詩人が自身を炎や水に例えるように、私たちの身体も「何にでもなれる」というのです。
自由な身体、それを「見る側」「見られる側」として規定する、あるいは時代の中で移り変わる「私」を表現するもっとも手近なツールが「装うこと」だったとしています。
これについては鷲田清一さんも「モードの迷宮」で言及していますが、身体というのは人間にとって脅威的な側面もあったようです。
三浦さんの論における「舞踊」、すなわちトランス状態になってしまうことは、社会を維持していくうえで大変危険です。
自由にふるまうことで共同体が維持できなくなる可能性がありますから。
そこで身体に加工を加えるようになったのだそうです。
ミシェル・フーコーも指摘していたのが、軍隊の形成。
あれは一般市民や農民の身体を「調教」して軍人にするという話なのですが、身体の使い方を、自然に学び取ったものと誰かから押し付けられたものに区分すると、母語のように自然に操れることと決定的に違う、不自然な動作もあることに気付きます。
身体は「規定」される。社会の維持のために。
そして着飾ることで自由だった身体を「規定」することが当たり前になった今、アイデンティティも大きく着飾ることによって「規定」されているのです。
その論たちから言えば、私のやっていることは自己による自己規定です。
流行の、量産された服で自己を規定するのも悪くはないのですが、自分の身体を自由に、自分らしく規定できるほうが私の性には合っていたみたいです。
世界でひとつだけの推しグッズを作ることも、言ってしまえば自己による対象の規定。
それは自分だけの勝手な解釈なのかもしれませんが、そうすることで「私だけの」推しになると思うと……なんだかイケナイ気分になってきますね(笑)
とりあえずやってみよう、という何とも楽観的な発想から私は今日もミシンに向かっていますが、それは楽しさの反面社会の病的な側面も映し出していたのでした。
短いですが今回はここまでです。
次回はデザフェスでお会いした、大好きなライブペインターさんの特集を組もうと思っていますので、ご期待ください。
それでは、また。