ゆったりまったり雑記帳

その名の通り、雑記帳です。

「家族」って……(前編)

早起きは三文の得。でもエブリデイ春眠暁を覚えず。そんな星野です。
今回は2部構成の第1回です。
テーマは「家族」。
私にとっては少々重いですが、前半では映画からみる家族のありようについて、後半では現代の家族と教育について語りたいと思います。
だいぶ炎上覚悟な内容ですが……どうぞお手柔らかに。

 

そもそも「家族」とはなんでしょうか。
私にとっては諸事情で本当の家族と呼べる存在がいないのですが、仮に血縁関係によって形成される共同体だとしましょう。

でもそれって時に「呪い」に変わりませんか?

……という問題提起をしたいのです。

きっかけは2017年2月に公開された映画「彼らが本気で編むときは、」(荻上直子監督)と、カンヌ国際映画祭でパムルドールを獲得した2018年6月の映画「万引き家族」(是枝裕和監督)の2本を観たことです。

 

 

どちらの作品に登場する共同体も、先ほど定義した「本当の家族」ではありません。
ですが、(ご覧になった方は感じられたかもしれませんが)いわゆる「本当の家族」よりも濃い繋がりを見せていると思うのです。

 

まず「彼らが本気で編むときは、」ですが、LGBTのリンコさんとそのパートナーのマキオさん、そしてトモちゃんという女の子の共同体が少しずつ歩みより、幸せに過ごしていきます。
編み物を中心として、彼らの結び付きが極限まで高まっていく様子は涙なしには観られませんでした。
リンコさんのように強くありたい、世間はLGBTに対してそんな優しくなかったとしても、私だけはせめて良心的でありたい、そう思うあたたかな映画でした。

一方「万引き家族」のほうは、すごく複雑で不思議な映画だと感じました。
最初、この中心になる家族のなりたちが判然としないのです。
なぜ子どもは「父ちゃん」と自称するおじさんのことを「お父さん」と呼ばないのか、とか、娘の名前がふたつあるのはなぜかとか。
そんな、社会常識から照らせばおかしいけれど、幸せな生活が続いていくのですが……
ある事件をきっかけにこの共同体が崩壊します。
そして暴かれる闇の部分。

 

社会常識に照らせば、あの共同体は間違っていたのかもしれません。
けれど、血の繋がりだけがほんとうに家族を作り上げるのでしょうか?
拾われた子どもたちは不幸せだったのでしょうか?
万引きすること、子どもを無断で連れ去ること、どちらも社会的に間違っているけれど、それでほんとうにしあわせって測れるのでしょうか?

という感じで、頭のなかに疑問符が浮かびまくったのです。
泣きたいような、けれど泣くのはふさわしくないというか憚られるような、苦しいような切ないような感情がこみ上げてくる作品です。

 

ここからが本題。

 

どちらの作品でも、子どもたちは何らかの原因(だいたいが親からの虐待)によって一度「本当の家族」から切り離されます。
彼らは切り離された先で、生きるために必要なことを、文字通り清濁併せ呑む形で学んでいくことになります。
教わったことが正しいとしても、間違っていたとしても、「家族」から学び取ったものは子どもたちの心に大きく影響します。
子どもは知らず知らずのうちに親(あるいはその代わりとなる大人)から多くの「思考の型」を得ているということが浮き彫りになるのです。

そして幸せな時間を過ごしたあと、偽りとも言える共同体……仮に「家族(?)」としておきましょうか、これはあっけなく終焉を迎えます。
そこからわかるのは、現代社会が「家族(?)」に対して厳しいことと、「本当の家族」に戻ったところで必ずしも幸せになるとは限らないし、むしろ「家族(?)」と過ごした時間に子どもは影響されるのだということです。

 

「彼らが本気で編むときは、」のトモちゃんが実の母親に対して「リンコさん(=母代わり)が教えてくれたこと」を叫んだように、「万引き家族」のリンちゃんが愛情を知って実の親から逃げようとする姿勢を見せたように、子どもは「家族(?)」との交流で身につけた様々なテクニックを活用し、「本当の家族」がかけた呪いを解除しようとします。
どちらの作品も「本当の家族」が愛情を与えなかった代わりに、「家族(?)」がそれを補填しているのです。

 

これではどっちが真の意味で「家族」と呼べる存在なのかわかりませんよね。

 

「本当の家族」は、しばしばその距離の近さからお互いの領分をうまく見極めることができずに、共依存あるいは領分の誤認をしてしまうことが多いです。
健全なご家庭でもそういうことは起こりうるのです。
どんなに親が人格者であっても、子どもとの距離感を完全に掴むことはできません(もちろん、子どもにも親にもその日の気分やコンディションがあるので、毎回適切な距離感を維持するなんてどだい無理な話なの
です)。


「彼らが本気で編むときは、」「家族(?)」の在り方は決して社会的に広く認められたものではありませんし、「万引き家族」に至っては法に触れていますので、私は「万引き家族型の共同体」を肯定しているわけではありません。
ですがあの共同体が子どもの発達に良い影響を与えていたことは映画を観たなかでわかりました。
もちろんフィクションですが、彼らの幸せを願わずにはいられませんでした。
リンちゃんとして生きていたほうが、ジュリちゃんとして生きているよりはるかに楽しかっただろうと思います。

だからこそ今、「家族」という共同体の見直しを迫られている気がするのです。

 

「あなたのためだから」という言葉で自分や子どもを騙していませんか?
家族のなかで自分を殺して生きているのはつらくないですか?

 

私自身「本当の家族」には恵まれていないので、共同体で自分を偽ることの苦しさは中途半端ながら知っているつもりです。
だから声を大にして言いたいのです、「本当の家族」は時に呪縛になると。
そしてそこから抜け出したほうが、お互いに幸せになれると。

 

家族の在り方はそれぞれ自由でいいと思います。
LGBTだろうが、元犯罪者だろうが、誰かと寄り添って生きていくことを否定する権利は誰にもありません。
ですがその共同体の持つ、「愛情」というものを考えたときに、誰かを苦しめてはいないか慎重になる必要があるはずです。
そのことに気付かされた映画2本と、それにまつわる私見でした。
ご興味が湧いた方はこの映画を是非実際にご覧になってください。

 

後半に続きます。
それではまた。