ゆったりまったり雑記帳

その名の通り、雑記帳です。

「名作誕生」展レポ

苦労も感じつつ成長や楽しさを実感する日々。どうも星野です。
今回は忙しいと言いつつ遊びに行った上野・東京国立博物館(トーハク)での企画展示「名作誕生」について感想をお伝えしたいと思います。
では、いざ。

今回の展示は「つながる日本美術」というのがテーマだそうで、各時代ごとに(過去から未来へとつながる)縦・(同時代に生きた人々同士つながる)横の両方から日本美術の系譜を辿っていくものでした。

単純に言うと、教科書で見た! とか、名前は知ってる! みたいなものの本物が見られるという恐ろしい展示会なのです。
私は日本史も美術も好きなので、めちゃくちゃ楽しめました。

そもそもこの展示会は美術雑誌「國華」の創刊130周年記念ということだそうで……「美術は国の精華なり」という言葉に合わせて、出品されていたとのこと。
素敵なフレーズですよね、私は美術が国を彩るってことだと解釈したのですが、それって日本文化の全面的肯定なわけで。
日本の美術、すごいぜ?
という先人偉人たちの声が聞こえてくるようです。

まずは前期展示のお話から。

前期の目玉はいくつかありますが、「普賢菩薩像」(後期展示にも同じ名前の作品がありますが、教科書に載ってるやつは前期展示でした)、「平家納経」「初音蒔絵硯箱」の三点でしょう。
普賢菩薩像は白い象に乗っている仏様の絵です。平安時代の最高傑作と言われています。
和様の仏様は穏やかな表情をしていらっしゃることが多いそうですが、ひとつひとつお顔が違うなかでひときわ神々しかった印象です。手を合わせているお姿に吸い込まれるような……そんな不思議な魅力を湛えていました。

「平家納経」は広島の厳島神社平清盛が奉納したとされるお経です。
私が日本史を現役高校生で習っていたときは入試で問われると噂だったのですが、平家納経の問題はついぞ見たことはなかったです(笑)
大和絵の上にお経が書いてありまして、歴史上の重要人物が書いたというだけでなく美術品や史料としても価値が高いという名品です。

「初音蒔絵硯箱」は、徳川家の姫君であった千代姫の婚礼で使われた調度品です。
何がすごいって、あの源氏物語の世界を、人物を描き込むことなく表す(留守文様)技法で「わかる人にはわかる」世界を作り出しているところです。
古典文学クラスタは本当にすごいと思っています(私もその端くれではありますが)。
特に源氏物語クラスタのパワーが凄まじいです。
そもそも原作が終わって数百年(現代では1000年)経っているにも関わらず人気が衰えていない!
クラスタは連綿と読み継ぎ語り継いでいく!
場面絵(登場人物なし)またはモチーフだけでどの帖の話かわかる!
二次創作ガンガンやる!
しかもその製作された品は訳文や漫画、アニメ、小説だけでなく着物・調度品に至るまでありとあらゆるものがある!
……熱量がおかしい(笑)
かつて菅原孝標女先輩が「源氏物語読めるならお妃様の位なんて要らないわ」と言ったのが、源氏物語クラスタの胸に刻まれているのでしょうね……アツいです。
源氏物語と同じくらい人気だったのが「伊勢物語」なんですが、こちらは実は作者も制作された意図もわからないという謎多き作品です。
かきつはたの和歌は高校生が古典の授業で習うあれですね。
このモチーフも大変好まれたようで、たくさんの二次創作が生まれていました。
尾形光琳作の「八橋蒔絵螺鈿硯箱」はいちばん感動したかもしれません。
きらきらときれいで、モチーフがイメージを、感情を、想起させるのです。
めちゃくちゃ目に焼き付けてきました(笑)
人を惹きつける作品って、時代の流れのなかでも色褪せないんですね。

後期展示でもたくさんのものを見ましたが、そのなかでもまずは国宝の「聖徳太子絵伝」についてお話したいと思います。
私の尊敬するTwitter界の有名人・たらればさん(@tarareba722)の聖徳太子のお話を読んだのですが、本当にその通りなのかもしれません。
聖徳太子はあまりにもぶっ飛んだ伝説が多すぎるのです。救世音菩薩が皇女の口から入って身ごもり厩の前で生まれたとか、名馬で富士山登ったとか。
その伝説はたらればさんのおっしゃる通り、「装置」としての役割を持っていたのかもしれません。
外(中国)との関係を対等にしていくために、また内(日本)で仏教を広めていくために、「『日本(倭国)』という中央集権国家を作り出す上で『教祖的な神性存在』が必要」(たらればさんの2018年5月3日のツイートから引用)という説には一理あるのではないかと考えております。

そんなことを考えたあとに見られたのは雪舟の「天橋立図」です。古画の「実際の風景を精密に描き出す技」を学び、それをアレンジし、実際には見ることのできない架空の風景を表現した、雪舟の作品の中でも特に価値の高い絵でした。
日本は古来からアレンジするのがやっぱり得意なんだなと、そう感じました。
雪舟の活躍した室町期では中国風に描くことを求められていました。
その中で日本人の「空間の把握が曖昧」「無には無の意味がある」という感覚を見事に画面へと落とし込んでいるところに、雪舟が愛される理由がある気がしています。

琳派の作品も多く展示されていて、俵屋宗達のトリミングとコラージュを利用した屏風絵などは圧巻の一言。
日本には昔から「オマージュ」という言葉が深く根付いていると感じました。

琳派の作品にも心を惹かれましたが、その次のブースくらいに、私が一番見たかった作品「仙人掌群鶏図襖」(伊藤若冲筆)があって、本当に心が震えました。
奇想画家として有名だった伊藤若冲は、鶴や鶏を描いた作品を多く残しているそうです。
その自分の描いたものをどんどんブラッシュアップし、効果的な表現を探っていたようなのです。
この場合は自分自身のオマージュですね。そういう自己変革をやめなかったからこそのこの作品の迫力……と思うと見られて本当に幸せだったと思います。

もうひとつの本命作品「見返り美人図」(菱川師宣筆)も素晴らしかったです。
当時最先端の流行ファッションに身を包んだ女性が、日本舞踊を思わせる姿勢で振り返る……女性の美しさを最大限にまで高めた絵ですね。
着物の柄なんですが、手で描いたとは思えないほど寸分の乱れもない図柄でして、純粋に「すごい」と思いました。
何を使って描いたんだろう、と興味をそそられました。
視線が交錯するという構図も日本美術が受け継いできたものだそうで、視線がどこに注がれているかを見るのもまた一興なのですが……

視線、というのでひとつ思ったことがあります。

絵画をはじめとする美術作品には必ず作り手と鑑賞者がいますね。
見た人は「ここがすごい」とか「ここがだめ」とか好き勝手言うわけですが、では果たして美はどこに生まれるのでしょうか?

私は作品が製作者の手を離れて、鑑賞者の心のなかに認知された瞬間だと思っています。

美は作り出そうと思って作り出せるとは限りません。製作者サイドのコンディションと、鑑賞者の趣味嗜好と、さまざまな事情が関係します。
ですが確かに美しいとされるものがある。
そこには、製作者の思惑を越えて知覚された「美」が存在します。
社会情勢や美術史、製作者の思いなどさまざまな文脈から編み上げられたものが作品です。
(この辺りはロラン・バルトのテクスト理論を引っ張ってきています)
作品を見て何を感じるかは鑑賞者に委ねられています。
何をどう捉えるかは自由ですから、いろんな感想が生まれるはずです。これは好きだとか、あれはいまいちだとか。
その激しい淘汰のなかで生き残ってきたからこそ多くの人が美しいと感じるのであって。
あくまでも「無意識的に選び取られた美」であり「純正オリジナルの美的感覚ではない」ということには自覚的でありたいものです。

要はものを美しいと感じるのはいつも受け取り手の問題なのです、というお話。
これは文学でも同じで、書き手と読み手の関係は「書き手の手を離れて大きな流れのなかに位置付けられたテクスト」として文学作品を読み取ることが大事なんだと思います。
前回も参考にさせていただいた「寝ながら学べる構造主義」(内田樹著)は面白いのでご興味のある方は是非。

そんなところで今回は終了です。
今度は「モネ それからの100年」に行こうかな。
それでは、また。