ゆったりまったり雑記帳

その名の通り、雑記帳です。

過去記事一覧①「教壇に立つその日まで」第六弾

最近よく熱を出すのでとても困っています。
どうも星野です。
この連載も6回目ですが、なんと終わりが見えてきました。
そうです。遂に就職が決まったのです。
某私立高校の先生から直接お電話いただき、めでたく採用という形になりました。
ですがここに至るまでには、長い道のりがあったのです。

最初に、「なんでそもそも学校の先生になろうと思ったの?」というお話から。
私は決して華やかな学校生活を送る人間ではありませんでした。
勉強はできるけれど運動はからっきしで、休み時間は図書室か音楽室に引きこもるタイプの子どもだった私は、友達が少なく、運動会当日は足を引っ張るだけなので家にこもっていたかったし、スケート教室など開催された日には仮病を使ってずっとストーブの前で暖まっていました。
小学校時代はまだよかったのです。
中学校に上がると学級委員に(半ば押し付けられる形で)なり、そこからは地獄の日々でした。
中学1年生の時の学級担任が相当な嫌われ者で、当時の私にもわかるくらい指導能力が低い人でした。
それがきっかけで担任いじめから学級崩壊につながり、ただ息をひそめて暮らしていました。
そのままならよかったのに、何を思ったか突然私は「こんな学校嫌いだから自分で変えちゃおう」と考え始めます。
そして運よく生徒会副会長までのぼりつめたのですが……
圧倒的カリスマを誇る当時の生徒会長とは対照的に、私は完全に裏方に徹していましたので、同じ学年の学級委員からいじめやからかいを受けていました。
例えば、私のことを口汚く罵る同級生、陰でクスクス笑う同級生、などなど。
その頃から心が麻痺していたのか、特に何も感じることはありませんでした。
ちょっとうっとうしいな、とは思っていましたが、勉強ができればそれでよかったのです。

この勉強好きという変わった性質が、のちに大きな転機を生みます。

高校に上がって嫌いな同級生とおさらばできた私は、とてもしあわせな3年間を過ごしました。
頑張れば応援してくれる先輩・後輩・新しい友達・先生方が何よりもありがたい存在でした。
この時に私の親友とも呼べる人たちにも出会うことができましたし、あの高校で本当によかったと思っています。

何より素晴らしかったのは、教えてくださった先生方の熱意です。

週に1回1時間、個別に数学をご指導くださった先生。
休みの日に夏目漱石の「こころ」に出てくる場所を一緒にお散歩しようとお誘いくださった先生。
中原中也の詩について、1時間私と1対1で議論を交わしてくださった先生。
私の志望校について一緒に検討してくださった先生。
「恩師」という言葉を、そのまま体現したような先生ばかりでした。

この時、今でもよく飲みに誘ってくださる仲良しの先生がこうおっしゃっていたのが、私の進路を決めたと言っても過言ではありません。

「お前はあの学校のどの教員よりも教師らしかった」

この一言で、「教員になろう、学校の現場を変えたり、恩師から教わったことを次世代に伝えよう」と決意したのです。
勉強が好きなら、得意な勉強でお賃金をもらえばいいじゃないかと、私は考えました。

この「なぜ教員を目指そうと思ったのか」は、採用面接でも頻出の質問ですし、オリジナリティがないと面接官の印象に残らないので、今後教員を目指す方は参考にしてください(笑)

そんな私が私立の中高を目指そうと思った、最大のきっかけは「学校のトイレ」でした。
私自身は小中高が公立、大学が国立なので本当に「私学」というものに憧れを抱いていたのです。
その象徴が「トイレ」なのです。

学校のトイレなんてどこも一緒と侮るなかれ。

まだ私が中学生の頃、併願校をどうするかという話が出ました。
そこで某大学附属高校の見学に伺い、お手洗いを拝借しようと思って中に入った瞬間、カルチャーショックを受けました。
和式がないのにまずびっくりし、床もきれいだし、当時の志望校(のちの母校)とは大違いだ……!! となったわけです。
さすがにトイレだけで選ぶわけにもいかなかったので、高校は公立に行きましたが、あの時の感動は忘れられません。

工事があってやっと和式が全部撤去されたのが2015年という母校(驚くべきことに高校も大学も同じ年にそうなりました)には、確かに教育の質は高かったのですが設備がいまいちだった、という残念な思い出がありました。

そこから私は、こう推論しました。

設備が整っているということは、お金が入ってきているということ、つまり教員の待遇もいいということでは?

ということで、公立の採用試験には目もくれず、ひたすら私学教員適性試験のために勉強していました。

もちろん私学のほうが指導内容の自由度が高く、私の理想とする教育を実践できると考えたのも理由のひとつです。

そして迎えた本番当日。
途中で迷子になる、消しゴムを忘れるなどのアクシデントに見舞われつつ、私は試験を解きました。
結果、現代文D判定、古文B判定、漢文A判定。教職教養A判定。
一番時間かけた現代文で恐ろしい点数を叩き出してしまいました……。
そのため私に求人のお声がかかることは2月になるまでありませんでした。
自分から私学に応募しても、私の持病を理由に断るところがほとんどでした。
(私の持病については過去記事を参照して頂ければわかりますが、大学2年で統合失調症とうつを併発し、現在は気分障害という診断を貰っています)

漠然と「来年度からはフリーターかぁ」と思っていた2月某日。
某私学から一本の電話が入りました。
それが冒頭のお誘いに繋がるわけです。

私は精神疾患を持ち、一時は日常生活もままならないほど症状が重かったのですが、今は主治医から勤務許可を得られるまでに回復しました。
このことから皆さんにお伝えしたいことはひとつです。

精神疾患だからとか、障害を持っているからだとか、そういった理由で仕事を選べない(あるいはできない)ことに疑問を持ってほしい。
もちろん個人には仕事に対する適性がありますし、同業界他業種を選んで幸せに暮らせるパターンもあります。
友人が持ち出した例ですが、「CAになりたい女の子がいたとして、身長の低さなどでCAになれなかったとしても、飛行機が好きだから管制官になるとか、旅行が好きだから代理店で働くとか、そういう道もある」というような事例に異論をはさむ余地はありません。
障害の重さを利用して就職することも悪ではないと思います。
むしろ一般就職しようとすると障害を持つ方は非常に苦戦するかもしれません、私が実際そうでしたから。
利用できるものはなんでも利用したほうがいいのです。
ですが私が言いたいのは、「病気(障害)を理由に好きな仕事を諦めなくてよかった例がある」ということです。
被雇用者に危険がなく、不当な労働環境でもなく、雇用者側に損害が出ない範囲でならもっと職業選択の自由が保障されていてもいいのでは? という問題提起です。
夢を諦めてほしくない。頑張れとは言わないけれど、できることもあるはず。
そうお伝えしたいだけなのです。

私のこの連載は4月から「教壇に立ったその日から」と題を改めて続けていく予定ですので、教育現場の実情を発信していければ、と思っています。

それでは、また。