ゆったりまったり雑記帳

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「古典×現代2020」レポ【note・ブログ共通記事】

雨音が強くなったり弱くなったり、まるで気まぐれな猫ちゃんみたいです。我が家のネコチャンぬいぐるみ・アランチャくんは、「はれたら、おふろね」と梅雨明けを待っています。ぬいぐるみ用シャンプーを買ってからというもの、お風呂に入るのが気持ちいいと知ってしまったらしい。乾かすの大変なんだぞ。どうも星野です。定期更新日は火・金・土。今日は連続投稿日、ふたつめは今日行ってきた「古典×現代2020」展(国立新美術館)のレポです。こちらも事前予約必須ですが、時間指定の料金はかからないのでチケットとオンラインで予約できるQRコードがあれば入ることができます。待機列が形成されるほどの盛況ぶりなので、平日夜を狙うのがオススメ。今回は「古典との向き合い方」というテーマを掲げて鑑賞したので、その話もできたらいいな。

 

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チラシとチケット

 

日本のアート(美術)の根源は、おそらく縄文時代の土器などでしょう。装飾は呪術的な意味を持ち、なおかつ実用品でもあったわけですね。

それがゆくゆくは仏像、経文などの宗教色を強め、そして刀剣や器などの実用品に変わり、そして庶民のものとなるのです。

いわゆる近代的な審美眼で見ていた人もいたでしょうが、どちらかといえば日本の美術は「質素ながらも美しく、便利である」ことに重きを置いていたように私は思っていました。

この展覧会では、8人の現代アーティストが様々な方法で古典作品と向き合い、オマージュしています。ただ、古典への接し方が全員違う、というのが面白いポイントで、国語科教育界隈で言われていた「古典を学習する意味」みたいなものに似た何かを感じ取りました。

古典はただ置物として愛でるだけのものでも、実用的なものでもない、そのさらに遥か高みを行く「古典の味わい方」を教わった気がします。

 

最初は仙厓の作品を再構成した菅木志雄。円や三角形の中に「空」、すなわち仏教におけるすべての否定と、その縁起を見出した仙厓に対して、「円は円です」と言い切る菅の淡白さは、小気味よいものがありました。そうです、古典はただ礼賛すればいいというものではないのです。まずは斜に構えて「本当にこれにはそんな意味があるのか?」と問いかけたり、疑問を持ったりすることからきっと鑑賞は始まるのでしょう。菅の作品は様々な種類の石を円形や四角形に並べたもの。菅はそれに特段の意味をつけるというよりも、仙厓のいる高みには自分は行けないなと感じつつも「すべてが在る」ことを表現するためにあえてこの「円」と「四角」を配したように思えてなりません。自分と仙厓の見ているものは違うけれど、伝統の中に位置づけられていくうちに意味は生まれてくる……そう考えているのかもしれません。

 

次に花鳥画を写真で表現した川内倫子花鳥画といえば群鶏図の伊藤若冲が思い起こされますが、それを意識したニワトリさんの写真、そして今まさに産まれようとしている卵のなかの雛鳥の写真もありました。生々しいほどの生と死を切り取る写真と、美しい部分だけを抽出したような花鳥画ではだいぶ趣が違いますが、四季のなかでめぐりゆく「いのち」の輝きがありありと表現されている点では同じだな、と思いました。川内は「私も絵筆を握っていただろうか」とコメントを寄せていましたが、ファインダー越しの世界も絵画と同じで「現実ではない」。何か思惑があって切り取られたものであることを思い出させてくれました。表現方法は違っても、見えているものは同じというのがなかなか面白かったです。

 

続いて円空の仏像からインスピレーションを受けた棚田康司。古来から山だとか木だとか、そういう自然物に対して「紙の依り代」という考えを持っていた日本人は、「一木造り」を編み出します。要は一本の木から仏様を掘り出す技法のことで、日本で作られた多くの仏像がこの形式をとりました。円空の仏様は豪快な鑿使いで温かみのあるユーモラスな仏様をたくさん彫っていたようです。実物を見ても「かわいい」と率直に思いました。木の特徴を活かすのがうまいのですが、それは棚田も同じです。木目の美しさや、割れ目さえも作品の中に取り込むその技術は双方ともに卓越しています。夏目漱石の「夢十夜」に「運慶が仏像を彫っている話」がありますが、私はあれを思い出しました。明治の木の中には、仏様は眠っていない。近代化される前の日本の、「木は神が宿るもの」という発想の欠落から夏目漱石はそう書いたのでしょうが、棚田の作品も円空と同じように一本の木から作っているとは言っても、どこか装飾的だったので、時代を超えて受け継がれるものと、失われていくものもあるのだと、そしてそれを無理に復活させる必要はないのだと考えるきっかけになりました。

 

続いて刀剣の美を独自のインスタレーションにした鴻池朋子。牛側に描かれた生命の脈動、ゆらめき、そういったものは鴻池が刀剣を持ってバランスをとったときに発した「地球の中心とつながった」という言葉に集約されるでしょう。ありとあらゆる「いのちの歴史」の根っこには、地球の存在があります。違う惑星だったらこういう表現も文化も生まれていないだろうし、(文系の学問である)歴史のもとは(理系の学問である)地球にあるのだと思うと、古典の世界の包摂するものはこんなにも大きいのかと感動します。ここは唯一のフォトスポットだったので、写真を。

 

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フォトスポット

 

次に、日光・月光菩薩と祈りについて考えさせてくれる田根剛の展示。ここでは天台声明という仏教声楽が流れているのですが、私は本能的に「畏れ」を感じました。何かよくわからないけれど不安になる。けれどそれが、光と仏像の姿を見ることによって感動に変わる。帰依しそうになりました。ちょっとしたカルトでもやりそうなことですが、その威力は計り知れないものがあると感じました。光は祈り、というフレーズが、なんだか米津玄師の「Lemon」の一節みたいでした。この世の森羅万象には、計算されたものも無意味なものもあるなかで、自分が祈ることによって(=意志の力によって)意味づけができるのならば、それってすごいことだなと。

 

「今でもあなたは私の光」――Lemon/米津玄師

 

続いて人気をかっさらっている北斎のオマージュ・しりあがり寿北斎の描いた作品、「富嶽三十六景」を面白おかしく改変しています。風刺や諧謔の精神は江戸っ子の人情なのかもしれませんが、それを見事に現代にアレンジしているのが素晴らしかったです。「アンテナバリ立ち」は声を出して笑ってしまった。FGO清少納言先輩みたいで。北斎の「北」は「北極星」という意味だそうで、不動の道しるべとしての敬意を込めていたようなのですが、それが本当に叶っていることが、「古典」の為せる技なのかと思いました。葛飾北斎は江戸の絵師として名を馳せ、そして不朽の名作になるようにと世に送り出した。そしてそれは果たされていることが、「歴史」や「文化」の重みであり、「古典を学ぶ」ことの重要な部分でもあるのだなと体感しました。古典と「遊ぶ」「戯れる」くらいの感覚で、学んでいくことも大事なのかもしれませんね。

 

次に、デザインで魅了する尾形乾山皆川明。ふたりは共通項があったというか、お互いに愛されるデザインを作り出していて、美のの普遍性を感じさせる展示だったのです。温かみのあるタッチ、渋い色、幾何学的配置、動植物のモチーフ。どれも「千年愛されるデザイン」の鉄板です。私もハンドメイドで服を作ったり作品を製作したりしているのでわかるのですが、そういうのは「ハズれない」のです。今も昔も変わらない普遍性は確かにあるのだと肌で感じました。古典を専門に学んでいる方は、もしかしたらこう言ったら怒るかもしれませんが、「現代でも通用するから残るし、その時代に生きた人たちも愛したからこそ残っている」のだと私は思います。

 

最後に、奇想天外だった蕭白横尾忠則のぶつかり合い。とにかく大迫力。古典の持つイメージは「遺産」でもあることを教えてくれた展示でした。自分が衝撃を受けた絵師の作品のオマージュに悪意を込めているというのもいろいろな意味ですごいですが、惹かれ、反発し……という悪魔的魅力があるのが古典なのかもしれないと思うようになりました。きっとこうして書いている私の文章も、いつかは古典になるし、横尾の作品も後世で何と言われるかはわかりません。ただ、衝撃を受けたことは間違いなくて、それを原動力として作品は連鎖的に生まれていくのだと確信しました。

 

私は古典文学を教えていますが、そこにも通ずる「古典を多角的に見る」ことが学べたという意味でも、いい時間でした。

私にとっては、この世界には意味があるものしかないのだと、そしてそういう気持ちで作品を作って、文化のバトンリレーができたらいいなと、そう願わずにはいられませんでした。