いつにも増して働いている。どうも星野です。今回は高校生を惑わせている「新共通テスト」について、最近考えたことを述べたいと思い筆を執りました。
出典となる文献は雑誌「中央公論 2020年2月号」、文科省の最新の告知PDF(https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00038188.pdf&n=%E4%BB%A4%E5%92%8C3%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%85%A5%E5%AD%A6%E8%80%85%E9%81%B8%E6%8A%9C%E3%81%AB%E4%BF%82%E3%82%8B%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%85%A5%E5%AD%A6%E5%85%B1%E9%80%9A%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88%E5%87%BA%E9%A1%8C%E6%95%99%E7%A7%91%E3%83%BB%E7%A7%91%E7%9B%AE%E3%81%AE%E5%87%BA%E9%A1%8C%E6%96%B9%E6%B3%95%E7%AD%89%EF%BC%88%E4%BB%A4%E5%92%8C2%E5%B9%B41%E6%9C%8829%E6%97%A5%E4%B8%80%E9%83%A8%E5%A4%89%E6%9B%B4%EF%BC%89.pdf)です。
遅ればせながら、以前話題になっていた「中央公論」を手に取る機会があり、1月29日に新しく告知された内容も検討しながらつらつらと書いていきます。
まず「中央公論」の総括から。
全体的に反対派のご意見が多かったですが、どの方も違った切り口から批判されていて勉強になりました。
「学力の三要素」だけで説明しきれるものが「将来求められる資質能力」ではないこと。
PDCAが回らないのは失敗を認めないでいるからだということ。
まかり間違っても受験生や保護者を振り回したり不安にさせたりしてはいけないはずなのに、そういった配慮がなく、「改革しないといけない」の一点張りで、本当にいいのか。
社会にはびこる反知性主義の恐ろしさを体感しました。考えることを放棄してしまう弊害は非常に大きいです。
なかでも特に苅谷剛彦先生のお話を興味深く拝読しました。
後発近代化、メリトクラシーの大衆化など……とにかく「改革ありき」というか、「(何の根拠もないままに)有用そうだから試す」からこんな迷走を繰り広げているのだということで、とても参考になりました。
日本が近代化するために追い付け追い越せで西洋を真似たのは歴史の事実でしょうが、そこと能力主義が結びついてしまったのが諸悪の根源なのではないかと。
厳然とした格差とコストパフォーマンスの板挟みになって教育がめちゃめちゃにされている現実からも、それは読み取れるでしょう。
新学習指導要領、高大接続、e-ポートフォリオ……トップダウンの改革で何かいいことがいままであったのだろうか……と考えてしまうほどに、教育界におけるエリート主義とは根深い問題なのだと感じました。
個人的にはセンター試験も完璧な問題を提供しているわけではないと思うので、のちのちブラッシュアップが必要になるでしょう。しかし国語で「実用文」を入れたのはちょっと違和感というか、正直いただけないなと感じました。
なぜなら内容が吟味されていないからです。要は、「試行テスト」のときのように出題者の意図を忖度することが目的になってしまう問題になるのではないかと危惧しているわけです。
国語に関して言えば、出題者・(本文そのものの)作者・解答者が関わって問題が作られて解かれるわけですが、誤解してはいけないのが「作者の気持ち」が問われることはほぼない、という点です。
それはあくまでも推測の域を出ないものであり、本文中に根拠がないことの方が多いです。だからそんなものは問うても仕方がないのです。
しかし「出題者の意図」は明確に表れます。たとえば京都大学の問題はほぼ記述です。これはおそらく「文章の要点を自分の言葉で説明できる学生を求めている」からだと考えられます。
(京都大学以外も有名難関校の半分くらいは記述を取り入れていますが、毛色がすべて違います。文章の正確な把握を求める学校、自分の意見を述べよと出題する学校など……)
その意味ではある意味「忖度」しているのです、出題者がどんな答えを要求しているのか考えることが求められているのですから。
しかしこれには、「試行テスト」の問題とは決定的な差異があります。
「試行テスト」の問題はもう問題文が(日本語が)読めれば答えがわかったり、逆に一意性がなかったりするのです。かなり質が悪いと言わざるを得ません。
思考力を問うはずが、ただの言葉遊びになってしまっていると言われても致し方ないと思います。
それならば現行のセンター試験の精度を上げて、二次試験でそれぞれの大学の特色に合わせた出題をすればいいと考えています。
しかし、です。今回令和3年に実施されるテストでは「実用文」の出題があると書かれています。それなのに試験時間は80分。どう考えても足りないです。
それだけでなく、これは選択(マーク)問題にしたのだとしても、また「思考力を測るはずがただ言語運用能力をみるためのものになっていた」というパターンになりかねません。
そもそも「実用文」を授業で扱うのは、悪くないと思うのです。私の勤務する高校は半分の生徒が就職しますから、そういった意味でも実用的な文章に触れておくことは必要だと考えます。
しかしテストで問うほどのものか……? と疑問を呈したくなるのです。進学を希望するような生徒の実態に合わない問題、あるいは言葉の綾で済まされてしまう問題が出されていいのかと。
一度でも作問していればわかるはずです、「こう訊いたらこんな答えが返ってくるだろうな」とか「こんな力をつけさせるためにこういう問題にするぞ」とか、いろいろな想いがあってテストは作られます。
それを「改革したから入れる」というだけの、後付けの理由で一点刻みの受験に持ち込んでいいのか。
実用文も含めて、基礎的な教養、社会に出るための知識を身につけてもらうのは必要ですが、それをすべて学校や塾に委託するのか。(家庭で、地域コミュニティで教えるということはないのか、ということです)
反知性主義のくせに、学校には何でも押し付けてくるあたりが私はどうも気にくわないのです。
それに加えて、受験しない生徒(受験できない生徒)も確実にいて、そういう子たちは経済状況や障がいなどがあるのでしょうが、そういう生徒たちは高度な教育を受ける権利すら得られないのか、ということもあります。
有名な大学に入っても何のために勉強したのかわからないという学生と、自分でお金を貯めて将来大学に入りなおしたいと考える高卒の社会人だったら、どちらに「主体性」があるのかは明白でしょう。
教育の在り方が問い直されているいま、課題は山積していますが、現場はこぼれ落ちる生徒が少なくなるよう必死に動いています。
教えることが変わっても、信念を貫こうという先生方もいらっしゃいます。
そういう現場の声を聞いてほしい、反映させてほしいという願いを込めて、ここで終わりたいと思います。
それでは、また。