今日は時間があるのでばりばり書いています。どうも星野です。
夜は涼しい、うれしい。
書きためていたものを大放出祭・そのに、こちらは2019年9月28日に青山学院大学にて開催された「敬語とは何か―敬語表現の諸相―」に参加してきたことの覚書です。
敬語。
皆さんはそれを、「正しく使われているか」などの指標でみることが多いかとは思うのですが、今回のシンポジウムでは「在り方そのもの」を検討しよう、という趣旨で行われました。
まだまだ敬語もわかっていないことが多いのだなあ、と思いながら聞いていましたので、その深淵を皆さんと除いてみようと思います。
まず敬語はざっくり分けると3種類あります。
尊敬語、謙譲語、丁寧語。
尊敬語はわかりやすいですね、相手の動作を高めるものです。
謙譲語はそもそも名前の付け方がおかしいので誤解されがちですが、「へりくだる」ものではありません。
謙譲語はさらに2つに分かれ、謙譲語A(動作を受け取る相手を高める言い方)と謙譲語B(話し手が主語を低める言い方)となっています。
丁寧語は話し手から聞き手への敬意を表す「です」「ます」のことです。
このほかに準敬語として、お(ご)+名詞でできる美化語、改まり語があります。
また、敬語には2つの要素があります。
ひとつは「対者敬語」。話者が相手との上下関係を判定する「です」「ます」などがその代表です。
もうひとつは「素材敬語」。「お…になる」「お…する」などのように、描写する意味内容をもって上下関係を表すものです。
そして大事なのは、「敬語法における敬意は、すべて相手に終始する敬意である」とする考え方です(三上、1995)。
たとえば(話者から相手に)「これからどうなさいますか?」と言った場合。
この敬語は、何を上位としているのでしょうか。相手? 第三者?
「あなた」「きみ」という人称代名詞が、文法上特別な意味を持っているわけではない日本語において、この場合はどうなるのか。
この時大事になる概念が、「相対敬語」です。
敬語は心理的な距離感によって使用されるもの、ということです。
これらの考え方はダイクシス(直示)と関係しています。
たとえば「そちらはどなたですか?」の「そちら」は「そのかた」に言い換えることができますが、「そちらに伺います」の「そちら」は「そのかた」にはならない。
この場合誰だかわからない「そちらのかた」は「ソト」(身内ではない)の存在です。
後ろの「伺います」の文ではどこに行くかの説明になっている指示語なのに、文脈によって使われ方が大きく変わるのです。
この「ウチ」「ソト」の感覚は、主語や目的語のない話し言葉の敬語はコンテクストに依存していることの現れなのかもしれません。
現代語ではこのウチ/ソトの感覚を自由に使い分けているようです。
話し言葉じゃない敬語はあるのか?
そう思われるかもしれませんが、実は書き言葉(小説)では敬語がほとんど出てきません。
じゃあ古典はどうなるのかというと、あれは「語り」の形式なので話し言葉だと考えることによって説明がつきます。
古典の敬語の場合、敬語の敬意の主体は話し手・書き手であることや、主語を低めるわけではないというところは現代の敬語と共通していますが、社会的身分の階層的秩序によって敬語が使い分けられるということがあります。
『源氏物語』でも光源氏は大将昇進以前は「せ給ふ」が使われていないのです。
そのためウチ/ソト感覚は薄いと考えてよさそうです。
そのためかなり機械的に敬語が付けられていると考えても良いのかもしれません。
その結果、言表内容がたとえば「殺す」とか「疎む」とかマイナスの場合でも敬語を使います。不思議ですよね。
また、高校生がよくつまずく「二方向の敬意」(主語と補語の両方に敬意を表す)ですが、使う場合は現代語と異なり「主語<補語」の制約はありません。
しかしこれには重大な例外があり、「申す」「参る」「賜はる」の場合だけは「主語<補語」の時にしか使えません。
同様に「召す」「御覧ず」「賜ふ」は「主語>補語」の時しか使えないのです。
これを関係規定性(素材敬語の中でも素材の間の上下関係について話し手の認識を表すもの)があるのではないかと考えられます。
ただ、上位者の敬意をニュートラルな位置に変更させるために使われる「下方待遇」の例も存在するので、ちょっとややこしいです。
ですがこの「下方待遇」の考え方が「謙譲語」の謙譲、たるゆえんなのではないかとされていました。
敬語の発達はアジアが中心で、トルコなどでも発達しているそうです。
すごく面白かったのが「自分がやったのだということを強調しないためにわざわざ受け身にする」というお話でした。
たとえば、「あなたの話が楽しかった」と言うところを「あなたの話に楽しまされました」みたいな形にするというのです。
他にも呼称+人称で(私の)先生などにしないと失礼にあたるとか。
日本語との大きな違いは「距離を置くこと」が目的の敬語ではない、ということでした。
相手への純粋なリスペクトなのだそうです。敬語が発達していても国が違えば役割も変わるのだと非常に勉強になりました。
敬語というより、他の文法要素も関わっているそうです。
そして敬語を論じるうえで欠かせないのが「敬意漸減」です。
使っているうちに敬意が薄れてしまって、どんどん新しい表現になることなのですが、韓国語や中国語でも起こっているので、全体的な傾向として「敬意は減るもの」のようです。
たとえば「させていただく」という表現は20世紀に入ってから使われ始め、それ以前は「ていただく」「てさしあげる」でOKだったのです。
じゃあなぜ減るのか。
これは研究者の方も悩んでいらして、「恩恵が関わるからではないか(方向性、ベクトルがくっついていると減りやすいのでは)」とか「頻度や生々しさの度合いが関係しているのでは」と様々なお答えが出ていました。
敬語は正しく使うこと、使わせることだけを学校では教えがちだと思うのですが、なぜ現在のような形になったのか、そしてどういう性質を持っているのかを考えさせるのも大切だと思いました。
長くなってしまいましたが、発表してくださった先生方に最大の感謝を述べてここでおしまいにしたいと思います。
それでは、また。