欲しいものを数えあげたら、煩悩の数より多くなりました。
どうも星野です。
今回は横浜美術館で開催されている「最果タヒ 詩の展示」に行ってきました、というレポートを書きました。
3/24で終わってしまうので、少しでも興味のある方はお急ぎください!
直近のインタビュー記事はこちら→ https://www.cinra.net/interview/201903-saihatetahi/amp?__twitter_impression=true
最果タヒさんは2004年にネット上で詩作を始め、10年後には書店で特集が組まれるほどの売れっ子になります。
主な受賞経験としては、第44回現代詩手帖賞、第13回中原中也賞、第33回現代詩花椿賞など。
小説も発表しており、近著では「十代に共感する奴らはみんな嘘つき」(2017年3月、文藝春秋)があります。
そんなマルチな才能を持ち、現代を生きる柔い感性を描き続ける詩人・最果タヒさんの最大の特徴が、「エッジの効いた言葉選び」です。
「死」にまつわる言葉、例えば「殺す」などを使い、読んだ人が思わず目を留める(そして心が凍りつく)フレーズを次々に生み出していくところに、私は大正期に活躍した太宰治などの無頼派作家たちの面影を見ています。
今回はインスタレーション展示ということで、詩を体感できるのですが……
その意味がよくわかる展示でした。
まさに言葉の雨。
鋭く尖った言葉のナイフが、雨のように頭上から降り注ぎます。
時に優しく包み込むように、時に崖から突き落とされるように、言葉は表情を変えながら私達の前に現れます。
モビールによって吊るされた詩、そして壁面に映し出される陰影。
フォトジェニック、とも違う、記念撮影、ではない、けれどほんとうに「言葉を記録する」ために写真を撮るような感覚がありました。
誰かが通ったり写真を撮ったりするたびにゆらゆらと揺れ、一瞬でも目を離したらもう同じ文言は見つけられません。
ホントに同じ部屋? と思うほど、目に飛び込んでくる言葉が丸っきり変わるのです。
これには驚いたどころの騒ぎではなく、もう何時間でもいられる(なんなら住める)と思いました。
この言葉たちを読むと胸が締め付けられる時もあるのでしょうが、その甘い感傷に浸ることができる、心のやわらかな部分をさらけ出すことができる。
そんな空間でした。
入るたびに新たな発見があるのに、脳裏に強く刻まれる言葉の数々。
同行してくれた友人の発した「センスが降ってくる」というひとことにすべてが集約されていました。
これは行って正解です。
センシティブでみずみずしい感性を大切にする人ほど、この空間の言葉たちに惹かれるのかもしれません。
展示会場はギャラリー以外に2箇所ありました。
ひとつは小倉山cafe、もうひとつは美術資料センターです。
カフェのプロジェクターで投影されている、1秒おきくらいに切り替わっていく言葉のつながりからお気に入りのものを探すのも一興です。
会話しているかのような、すれ違うかのような、まさに一期一会の詩です。
美術資料センターの詩も体感できるのです。
びっくりでした。
観て面白い「詩っぴつ中」というビデオと、開架の蔵書に隠された詩を探す楽しみにあふれている「詩ょ棚」。
正直、最果タヒさんや横浜美術館の企画者の才能に嫉妬しました。
最果タヒさんの詩のよさがわからない、とか、詩全体の読み方がわからない、という方もいらっしゃるかもしれません。
それに対し最果タヒさんのお言葉を引用しながら、持論を展開しようと思います。
最果タヒさんは「詩を読むことは能動的」と書かれています。(展示会場の「あとがき」より)
読まれた数だけ、読む人の数だけ、詩が生まれる、と。
ある意味で文学や音楽、芸術作品に触れるということは「自分の持つ文脈(コンテクスト)」と結びつく言葉を探す作業に他ならないのかもしれない。
どういうことかと言うと、つまりは「自分にしか見えない世界」との対面なのだと思います。
10代で読んだ夏目漱石の「こころ」と40代で読んだ同作では、感じ取り方は明らかに違うでしょう。
大人になって味覚が変わるのと似ていますね。
それは自分の中の経験や価値観の変化によって生起する、ごく普通の出来事なのだと思います。
文学・音楽・芸術は1回の鑑賞ですべてを理解できるものではなく、どちらかと言えばその時々によって感じ取れる印象が変わるものだ、ということです。
自分の置かれた状況や世界をどう見ているかについて、様々な合わせ鏡として、文学・音楽・芸術はあるのでしょう。
もちろん(私は4月から国語科の教員になる身ですので言わせていただきますが)、文章を読んで妥当に解釈できる範囲、ストライクゾーンみたいなものは、多かれ少なかれ、どの作品にも存在します。
文学の読み方を規定したいわけではありませんし、評論文より小説、小説より詩、という感じで解釈の幅は広がっていくとも思います。
自分だけのコンテストに浸るのも、個人で読むぶんには大いに肯定されるべきものだと考えます。
入試問題だとか、学校のテストだとか、そういうのは設問者の意図が介入してくるので、その限りではないのですが。
少なくとも私は、「何でもアリではないけれど、自由はあるよ」ということが言いたいのです。
その自由を享受し、楽しめるようになると、あらゆる文化的資本へのアクセスが意味のある出会いになると思います。
人間が自身と社会のコンテクストと(それらを完全に断つことはおそらく無理でしょうから)、折り合いをつけながら学び取っていく営みこそが文化の果たす役割なのかな、とも思うなど。
たくさんの人がこの展示を訪れて、自身に眠る感情と向き合うことを祈ります。
今回はここまでです。
とりあえず書評と「教壇」シリーズと「CIRCUS展」とライブレポが待っているので……がんばって書きます……
それでは、また。