ゆったりまったり雑記帳

その名の通り、雑記帳です。

ファッションに物申したかった【ブログ・note共通記事】

教育実習間際で震えています。

どうも星野です。

 

今回は「ファッションと自我」というテーマでお話をしていきます。

前々からアイデアだけはあったものの、情報が少なく結論が出せずにいたのです。

今回やっと書籍が手に入ったので書いてみようと思い、筆を執りました。

 

皆さんはおしゃれ、好きですか?

私は大好きです。

お洋服をコーディネートするのがとっても楽しくて、ついつい新作をチェックしたり、買ったりしてしまいます。

 

でも、おしゃれってどういうことなんでしょう?

人は何故、着飾るのでしょう?

それに自分なりの答えを出したいと思って、今回のテーマに選びました。

 

私の愛読している雑誌「mer9月号では、「わたしらしさ」という特集が組まれていました。

ある人は古着を買ってコーディネートに取り入れたり、ある人は色づかいに気を配ったり、ある人はシルエットにこだわったり……

いろいろな「わたしらしさ」に溢れていました。

 

でも、それを真似することは真の意味で「わたしらしい」ということにはならないんじゃないか? と疑問に思ったのです。

私たちは量産された服を着ています。

自由に服を選べる、と言っても、誰かの作り出したものを身に纏って、「デザイナーの意図した像」によって規定された「わたし」になっているのではないでしょうか。

私はレトロガーリーな服が好きで、あまりメジャーじゃないブランドのヴィンテージ風のものを買いますが、それでも誰かと同じものを着ています。

単純に一点ものや他にないものが好きなだけなのですが、レトロガーリーを「選んだ」私は、優しげに見られたいとか、可愛らしく大人っぽい雰囲気を纏いたいと思われている(=社会的に規定されている)のではないでしょうか。

 

そこに表れる「わたしらしさ」って、何でしょう?

 

また、こんなことがありました。

普段洋服を自分で選ばない友人に「洋服を選んでほしい」と頼まれ、一緒に買い物に出かけたときのこと。

私は「普段あなたはこういう系統の服を着ているよね」と言いながらそれとは違ったテイストを選ぶように意識していました。

結果として「すごく気に入った!!」と言われ大満足していただけたのですが……

それって私の「〇〇ちゃんはこれっぽい」という直感から得られたイメージを、あえて外すという選択をして、その子のなりたい像とは異なる「私のイメージした新しいその子」にしているのではないかと思ったのです。

いわばイメージの押し付けかもしれないと。

 

私はいわゆる赤文字系も青文字系も着ますが、そこで規定される「わたし」ってどんなものなんでしょう。

 

そこで参考にしたのが鷲田清一編「ファッション学のすべて」(1998、新書館)と、鷲田清一著「ひとはなぜ服を着るのか」(1998、日本放送出版協会)の2冊です。

 

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参考文献写真

 

鷲田先生の本はじっくり読まないと指の間からすり抜けていくような感覚があるので、この解釈が正しいかちょっと自信は無いのですが……以下は解説です。

 

「ファッションは、『わたしはだれ?』という問いと戯れている」と両書にあります。

モード(様態)、ファッション(流行)といったものは、自分の身体を自分で認知しきれないところから始まっているそうです。

確かに、私たちは自分の身体を(内臓を含めて)自分の目で見ることはできません。

衣服を纏うことで、触覚から自分の身体を知覚する、というところから衣服の歴史は始まったとされています。

 

西洋における初期の衣服は、階級を示すために華美で豪奢だったのですが、市民の台頭により「地味な没個性」こそが市民の証とでも言うように、現代の背広に通じる「画一性」を求めていくようになります。

しかし現代では、「他人と全く同じでは自己の存在が認知できない」けれども、「他人と全く違っても集団を維持できない」という二律背反に苛まれることになります。

自己の存在は極めて微妙な差異を求めているわけですね。

 

鷲田先生は、「らしさ」というものを『イメージとの深い共犯関係のなかで強力にはたらいています』(『ひとはなぜ服を着るのか』P.37)と説明しています。

性的な属性、もっと言えば社会的な属性を、衣服を纏うことで目に見える形にして演出するのです。

これこそが服装が個人の人格を形作ってゆくとされる所以なのです。

 

これらのことから考えると、私の抱いていた「わたしらしさ」というのは、至極まっとうな疑問だったのでしょう。

やはり個人の人格を形作るという意味で、衣服は個人を規定すると考えて間違いなさそうです。

ですがその規定される「自分」を、積極的に選べているという感覚がある今はまだ幸福なのかもしれません。

制服を着ていた頃は画一化された「自分」、集団に属する没個性的な自分として規定されていたことに反発していたから、あえて着崩したのかもなあ、などと思っております。

「わたしらしい」はファッションを語るうえで外せないキーワードですが、それは社会に規定され、デザイナーに規定され、様々な制約の中で不自由ながら選び取ったものだったということに気付かされました。

だから他の友達の洋服を選んだ時に「これは○○ちゃんっぽい」と思ったところに引っかかったんだろうなと。

「ぽい」という形容は私が抱く彼女へのイメージ規定だったのですから。

ですが衣食住と言うように、衣服を着ないわけにはいきません。

私たちは「じぶんらしさ」という幻想を追い求めて、社会的規定だったりモードだったりというものに、反発したり迎合したりしながら生きていくのでしょうね。

 

身近な疑問から自分の力でいろいろ調べてみて得るものってあるんだよという教訓にでもしてくだされば幸いです()

 

藤田嗣治展についても早急に書き上げるのでしばしお待ちを……!

 

今回はここまでです。

それでは、また。