ゆったりまったり雑記帳

その名の通り、雑記帳です。

書くことと話すこと【note・ブログ共通記事】

今日も楽しくオンセしました。プレイヤーをやるのもいいものですね、新鮮。どうも星野です。在宅で勤務が始まる前に遊び倒しています。

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オンラインセッション時の背景。大阪のカフェにて。

 

今回のテーマは「書くことと話すこと」。表現の違いとそれに起因する豊かさについてです。

私は最近友人とオンラインでTRPGセッションをしているのですが、明らかに得意な演じ方が違うと思ったのが事の発端です。

ある人は長考タイプで描写にもこだわるし、文章で書くのがすごくうまい。

ある人はその場の機転で気の利いた発言をして場を回すのがとてもうまい。

この違いはどこからくるのか。与える印象はどう違うのか。それについて思考を巡らせたいと思います。

 

オンラインセッションでは、音声も繋ぎますが、チャットログを残すために文字入力もします。私はその入力スピードと描写のうまさに相関性はあまりないような気がしています。というのも、入力が遅くてもそのぶん重厚な描写をするひとや、文章も演技もとにかく拙速を貴ぶひと、いろいろであり個人の好き好きだからです。(うちの卓はあまりにも方向性が違いすぎるので、顕著にみられるだけかもしれませんが。)それはその人の個性と経験に大きく影響を受けるものと思われます。しかしそういう、対面卓(いわゆるオフラインセッション)が得意なひとと、文章表現で勝負するオンラインセッションの相性が悪いかと言うとそうでもなく。入力が遅くても早くても、心に響く演技ができるひとはできてしまうようなのです。

 

ではその根源にあるものは何か。

 

それは読書経験、あるいはドラマや映画などの鑑賞経験、とにかくストーリーのあるものを読み、自分なりに解釈を加えた経験があるかどうか、だとにらんでいます。

 

うちの卓には最近になって小説を読むようになり、5/5GMデビューを果たしたライターがいます。その子はかなりのゲーマーで、少年マンガをガンガン読むタイプ。最近物語論同人活動に足を突っ込み始めたばかりの初心者ですが、その子の紡ぐ物語はとても心地いいものでした。私はこの卓で10シナリオライターGMをこなしていて、作品数もかなりありますが、正直その才能に嫉妬しました。おそらくその子が面白いと思った作品を、その子なりに解釈して再構築した結果、私の胸に響く作品になったから舌を巻くほどうまい作品に仕上がったのだと思っています。もちろん私たちプレイヤーが、GMの想定を超えた発言・行動を起こして、その結果思わぬ方向に話が転がり、いっそう面白くなった可能性もあります。しかし作品が個人に受け取られるときのことを考えると、どうもそれだけではないような気もします。

誰かが紡いだ「物語」(ストーリー)を受け取るとき、コミュニケーションの六要素(ロマン・ヤコブソン1960)が関係してくるのは確実なのですが、それが「じぶんごと」になるTRPGの場合、プレイヤーの心にGMの「ことば」はいっそう深く突き刺さります。GMの「ことば」は単なる情景描写ではなく、プレイヤーたちが直面している紛れもない「現実」なのですから、当然のことかもしれません。その「現実」に立ち向かい、共に戦い、たまに裏切ったりラブコメを演じたり……どんな形にせよ「物語がみんなで共有される」現象を通して物語は豊かになっていくのだと、私は考えています。それが音声言語だろうが文字言語だろうが、「共有」され「受け入れられた」瞬間にそれはひとのこころの根っこの部分に届くようになるのでしょう。古典文学が時代を経て語り継がれるのも、同じように皆に共有されるからなのかな、と思ってみたり。

 

ひとに届く作品をつくるためには、「自分が受け取った経験」がないといけない。

そういう結論にたどり着くのだと思いました。

なんだか脈絡のない話になりましたが、ここで考察はおしまいにして、別の執筆に移ろうと思います。

これが誰かのヒントになりますように。それでは、また。