たのしいことがいっぱいあると、やっぱりしあわせになりますね。どうも星野です。
今日は先日行ってきた現代アートの展示「話しているのは誰?」についてレポートをしたためようと思います。
場所は六本木の国立新美術館、会期は11月11日まで、火曜休館です。お早めに!
11月の金曜日・土曜日は20時まで開館しているので、お仕事帰りにもオススメです。
ガイドの小冊子もあります。現代アートってなんぞ?というひともご安心を。
この展覧会は日本で活動する現代アート作家6人のグループ展です。
コンセプトは「文学」。古代ローマの詩人ホラティウスの「詩は絵のごとくに」という一節を引用し、長らく議論されてきた視覚芸術と言語芸術の類縁関係を探る試みです。
作品のうちに文学的要素を汲み取れるのが、この展覧会の楽しいポイントです。
参加しているアーティストは北島敬三・小林エリカ・ミヤギフトシ・田村友一郎・豊嶋康子・山城知佳子の6名です(敬称略)。
それぞれ映像や写真、絵画など様々な方法で「文学」に迫っているので、芸術作品の物語性に惹かれるひとには是非観て頂きたいです。
最初は田村さん。テーマは「空目」です。
誰しも見間違いや空目をすることはあるでしょうが、この展示での「空目」とは、「空にある目」、つまり神だとかそういう存在が見つめている私たちの姿であったり、ある物体の二重性(ボートを漕ぐ櫂は、コーヒーに入れた砂糖やミルクを混ぜるマドラーにも見えます)であったりということを暗示しているように思えてなりませんでした。
俯瞰する第三者の存在を暗示するインスタレーション作品群から、どこかアンニュイな空気を感じることができました。
神がいるとは思っていないけれど、それに似た「万物を俯瞰する者」が、小説作品にも登場します。例えば中島敦の「山月記」は、誰が語っているのでしょうか?
そう考えると、田村さんの試みが非常に文学的であることが分かるかと思います。
続いてミヤギさん。テーマは「思い出」です。
《物語るには明るい部屋が必要で》と題された作品は、たくさんの写真と、誰かの話し声のする映像でした。
どこにでもある、しかしどこでもない、曖昧な空間・場所の写真と、モノローグ調の男性の声。
ぼそぼそとした語りは、誰かに聞かせたいような、聞いてほしくないような、誰とはなしに語りかけるその声色に、現代のSNSに近い感覚を抱きました。
ものすごく孤独で、でも薄いというか表面的な繋がりはあって。
そこに意味を見出すことができるかどうか……というのに、とても現代小説っぽさを感じました。
思い出というのは頭の中で脚色されるのだから、一種物語のようなものなのだろうなと、たとえそれが事実だったとしても。
続いて小林さん。テーマは「原爆とオリンピック」です。
私はこの作家さんにとても心を奪われてしまいまして……かなり推せます。
ウラン、原爆、戦争、オリンピック。どれも現実に起きた出来事、実在する物質ですが、それが歴史(History)であることによって物語性が増しています。
第二次世界大戦の前後で起きた、オリンピック聖火リレーが日本に来なかったという出来事。
代わりのように落とされた原子爆弾の炎。
《彼女たちは待っていた》という言葉と、白いワンピースの少女の肖像に、言いようのない寂寞の想いを感じました。
戦争の中で儚く散った命なのでしょうか、炎を待ち望む少女たちの表情には期待と不安が入り混じっています。
歴史は物語られるものです。先ほどの思い出や、記憶と同じように。
物語るひとのいない歴史には命がありません。命の火を、聖火リレーのトーチのように灯し続ける。それが歴史(人の記憶)と言葉の役割なのかもしれません。
続いて豊嶋さん。テーマは「主役とは?」です。
棚のようなものが壁にくっついているのですが、その下の、普通は見えない部分にたくさんの装飾があり、棚における「主役と脇役の転換」が起きているのです。
なぜかRADWIMPSの「学芸会」という曲を思い出しました。
どんな人も、誰が何と言おうと人生の主役なのでしょうが、棚の「支える部分」のように社会的(世間体の上)では脇役ということもある、という暗示のように私はとらえました。
認知のずれ、数値上のずれ、多くのもののずれから私たちの生活は出来上がっていて、そういうところから生まれてくる物語もあるのだろうなと思いました。
続いて山城さん。テーマは「家族」です。
《チンビン・ウェスタン》という映画では、ふたつの家族が登場します。どちらも沖縄の、基地施設の建設問題に直面しています。
賛成とか反対とか、沖縄に住んでいない私たちにはわからない葛藤がたくさんあることを感じる映画です。
幸福ってなんなんだろうなって、漠然と思いました。
家族のかたちも違うのに、同じ幸福はあるのでしょうか。
トルストイの「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」を想いながら鑑賞する映画は、とても複雑な気持ちになる一本でした。
最後は北島さん。テーマは「生活」です。
この部屋はたくさんの写真が展示されており、人物のポートレートや、建物や風景の写真もありました。
生活というものがどのように続き、どのように破壊されたり再生したりしながら終わっていくのかをまざまざと見せつけられた感じがしました。
なかでも心惹かれたのは、モノクロの写真で、雨が降っているのか白い線が入っている廃屋の写真でした。
誰かが住んでいた痕跡がある、まだ生命感がある、それなのにひとは住めないほどに荒れ果てている。
ただ撮っただけではここまでの迫力は出ないであろう一枚です。
人は物語というものに心を惹かれる生き物のようです。
高度に発達した知能は、何でもないことに因果関係を見出す(あまり関係ないであろう因果応報論とかですね)こともあります。
それが本能的なものなのか、私にはわかりませんが、私たち人間の周りにはたくさんの物語(=文学)が溢れていると感じた次第です。
展示された作品は、一貫して「文学」とは生きることと切り離せないのだと語りかけているような気がしました。
話しているのは、きっと私たちの内側にいる、無数の存在なのでしょう。
とても興味深い展示でした。
次回はおそらく「図書館総合展」の記事になると思います。
それでは、また。