ゆったりまったり雑記帳

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シンポジウム「国語科の将来」 自己省察【note・ブログ共通記事】

攻めの姿勢を貫くことだけは忘れたくない。どうも星野です。

今回の記事内容は、201981日に日本学術会議で開催された「国語科の将来」というシンポジウムのレポートです。

私が塾や学校などの現場で感じていることも併せて綴っていければと考えております。

 

まずこのシンポジウムが開催された背景ですが、今年度でセンター試験が終わり、2020年度から新しく「共通テスト」と呼ばれるものに変わります。

それとほぼ時を同じくして高等学校の学習指導要領が改訂され、大きく内容が変化します。

以下、文部科学省の担当官による説明の引用です。

 

国際的な競争力の低下、少子高齢化社会などの様々な要因、そして新たな社会のフェーズに移行することを受けて、高大連携がいっそう必要になります。

その一環として、記述問題や英語の4技能を測る新共通テストが位置付けられているそうです。

学習指導要領そのものの考え方としては、今まで「何を学ぶか」に重きが置かれていましたが、「何が出来るようになるか」を意識したものに変化させることを目的として改訂されるようです。

「カリキュラム・マネジメント」(各学校において、教育の目標に応じて内容を教科横断的にしたり、教育課程の実施状況を評価したり、様々な人的・物的資源を活用したり)や「主体的・対話的で深い学び」(いわゆるアクティブ・ラーニングの観点から学習過程を見直すこと)等が特色です。

高校国語科に関して言えば、「話すこと・聞くこと」「書くこと」の領域の学習活動が十分に行われていないこと、古典学習に対する意欲が低いことなどが課題としてあり、それを解決するために大幅な変更がなされる予定です。

この流れで国語科の新共通テストには記述問題が入るのです(が、課題が山積しているのは別の機会にお話しします)

国語科は「言葉による見方・考え方」――つまり、言語を通して理解し表現することを学ぶ教科として、「現代の国語」「言語文化」「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」に細分化されます。

「論理国語」では実用的な文章(契約書など)や評論文を読み、「文学国語」では小説を扱う……とのことなのですが。

 

まずそこから多くの疑問や提言がなされました。

そもそも「論理」と「文学」に分けることができるのか?

実用的な文章と情緒的な文章に分けることにいびつさがあるのではないか?

文学者が書いた評論文はどういう位置づけになるのか?

(例えば、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」とかですね)

論理は文学の中にもあるし、世界を解釈するために人間は「物語」という仕組みを利用します。

様々な評論家がそれを指摘しているわけですが、それを無視して分けることには私も賛同しかねると考えています。

そもそも社会で役に立つ・立たないという図式自体が私にはちょっとしっくりきておらず、なにか「この学問には価値がある」と一義的に決めているようでもやもやするのです。

そこについてはパネリスト同士の質疑応答でも激論が交わされたのですが、私としては論理や文学という括りにしたくない、というのが正直な感想でした。

 

また、古典に関する提言もふたつなされ、本来の成立やナショナル・アイデンティティを継承するという意味での共生的な存在として古典をとらえ、「古典に学ぶ」という姿勢で向かうことや、暗記・知識偏重の授業をするのではなく、話す・聞くというアウトプットと読む・書く(あるいは見る)というインプットの形式で自由に授業を展開すること、そして内言と外言の往還によって理解を深めることなど、多くの学びが得られました。

意訳や翻案、挿絵の活用などは私の勤務校でもできそうなので実践してみたいと思います。

 

そして最も印象に残ったのは、「国語力を育てるのは国語科だけではない」というお話でした。

すべての学問は文字や音声など、言語を使ってやり取りをし、知識を広げたり考えを深めたりします。

数学にだって論理性は必要ですし、社会の学習にだって情緒的な部分はあるはずです。

国語だけの問題にしない、他の教科の先生方とも連携することの大切さを改めて感じた瞬間でした。

 

単位の設定や新共通テストの問題、小学校から大学までの連携、と課題はそれこそ無限に湧いてきますが、現場から草の根活動的に変えていくしかないのだなと思っています。

これから国語科、ひいては教育全体がどう変化していくかは、やはりフロントラインに立つ我々にかかっていると思うと、身が引き締まる思いです。

体系的な学びを生徒に提供できるよう、今後も精進していかねば。

 

そんなところで今回は終わりです。

それでは、また。