お花見、楽しみましたか〜〜!?!?
私は満喫しました!!
花冷えだというのに、既に酔客と化しました、どうも星野です。
今回は現在東京国立博物館で開催中の「東寺展」に行きました、というレポを書きました。
月曜休館(4/29と5/6は開館)、基本的に17:00まで開いています。会期中の金曜日と土曜日は21時まで開館しています。
花見シーズンはめちゃくちゃ混むので注意が必要です。
コインロッカーの確保を!
音声ガイドは佐々木蔵之介さん。ええ声。
何よりおかざき真里先生の描き下ろしイラストグッズがあるということで、私はめちゃくちゃドキドキしながら鑑賞し、無事に2種のイラストグッズをゲットしました。満足。
東寺は京都でも駅に近く、有名なお寺ですね。
平安京に遷都された時から続く、由緒あるお寺。
823年に密教寺院となり、嵯峨天皇が空海に管理を一任しました。
ちなみに、塔は5代目で、1644年に造立されたもの。
1994年に世界遺産に登録されたことで世界的にも有名になりました。
本尊は薬師如来様です。
今回のキーマンである空海にも少しだけ触れておきます。
774年に現在の香川県で生まれ、23歳の時仏門に入りました。
31歳で遣唐使として唐に渡り、2年で密教についての知識をすべて会得したというからすごいです。
そんな空海の絵も本尊として祀られていたそうで、坐像と共に展示されています。
優しく落ち着いたお顔をされていて、悟りを開くとはこういうことなのか……と本能的に直感しました。
最初のコーナーには、最澄との交流と密教についての展示がありました。
最初からラスボス感満載。
「御請来目録」(最澄筆)と「風信帖」(空海筆)を見比べる楽しみ方がオススメです。
最澄の端正な筆運びには真面目さが垣間見え、空海の流麗な筆致にはパワフルで堂々としたものを感じます。
そもそも、密教とは何かと言うと、「大日如来様の秘密」のことだそうです。
それは書物でも表せず、体得するしかないとのこと。
それを2年でやってのけた空海の天才ぶりというか、凄まじさよ……。
密教には7人の開祖がいますが、彼らの肖像画も尊いものとして保存されています。
その密教のイベントのなかでもいちばん重要なのが「後七日御修法」(ごしちにちみしほ)というもの。
元日から7日間伊勢神宮で前七日節会という神道のイベントがあり、そのあとに行われるからこう呼ばれます。
金剛界・胎蔵界の曼荼羅が掛けられ、五鈷杵などのアイテムを用いて行われます。
十二天像も飾られ、優美で豪華な空間になっていました。
また、五大尊像もありました。これも十二天像と同じ感じで飾られているのですが、最初のものは焼失し、鳥羽上皇が修復に関わったのです。
不気味な存在を極力華麗に描こうとした努力が窺われます。
曼荼羅は、いつ見ても圧倒されますね。
なんでも、仏様の世界を表現した曼荼羅は、空海が初めて日本に紹介したものだそうで。
空海の先進性をよく表しているのが立体曼荼羅という試みでもあるのですが、それについてはまたあとで。
ひとは「よくないことをしてしまった」と思うとき、優しさによって救われるのかもしれないと、ふと思いました。
空海が唐から持ち帰ったものには、仏舎利80粒や水精念珠など様々なものがあります。
どれも精密で美しく、ちょっとしたところに細工が施されています。
宗教性と芸術性はやっぱり不可分というか、芸術性を純粋に取り出すようになったのは、宗教の力が薄まり始めてからなのかもしれないと考えました。
中でも、もとは貴族のものだったという「山水屏風」は、灌頂の儀式で使われたそうで、宗教という日常と非日常の境目にあるためには美しさが求められたのではないか、と考えています。
散華(目隠しをして曼荼羅の上にこれを投げ、落ちたところにいた仏様と縁を結ぶ儀式で使われる花びら)にも美しい仏様のお姿が描かれており、やはり宗教に絶大な力があった頃壮麗な宗教芸術が生まれ、現在は切り離されているのかも……と思うなど。
隠れた名品である「十一面観音」も出品されていました。
これは頭上に十一面のお顔があり、その左に帝釈天、右に女神を置く大変珍しい仏教絵画です。
また、妙見という北極星の仏様もいらっしゃいました。
こちらは道教の神様に近いそうですが、そういう他の宗教も受け入れてしまう度量の広さに驚くばかりです。
仮面をつけて行う儀式や、結縁灌頂など、あまり聞き馴染みのない密教のイベントですが、ちゃんと説明書的な書物があり、複雑な印の結び方を図解したものもあるようです。
マニュアルが整っているの、大事ですね。
この展覧会の最後には、立体曼荼羅を模して仏像がどどんと大集合しているエリアがあるのですが、今回も撮影可能です!
帝釈天様以外は撮影禁止ですので、マナーを守って鑑賞しましょう。
中国で生まれた立体曼荼羅の発想は、空海の描いた理想でもありました。
今回トーハクという舞台でその結晶が見られたことに大変感動しました。
仏様が普遍的なものというか、身近で人々の縋る対象であった頃から約千年。
私の目の前に現れた仏様は美術品として完成されたものでありながら「私の心を映すもの」でもありました。
仏様のお顔を見ていると、なんだかほっとするし、何より「見透かされている」感ってありませんか?
私はそれこそが仏教芸術の極致なのではないかと思うのです。
美術品としても、(ある時代においては)政治的権力の象徴としても、(またある時代においては)迫害の対象としても、そこに「ある」だけで意味のあるもの。
それが仏様なのではないかと考えるようになりました。
千年前の人々と、今の私たちでは、仏様に対する考え方は異なりますが、そこだけは同じなのではないでしょうか。
そして立体曼荼羅など革新的な考えを持った空海は、衆生を救いたいという願いもあったのでしょうが、いちばんは自分が悟りの道を究めたかったのではないのかな、とも思います。
今の時代に宗教が持ちうる力、そして美術がもたらす世界の両面を味わえる展覧会でした。
今回はここまでです。
次回はnoteの限定記事に着手しますので、展覧会はしばしお待ちを。
「へそまがり日本美術」展がひそかに気になっています。
それでは、また。