ゆったりまったり雑記帳

その名の通り、雑記帳です。

古典文学って何のために勉強するの?

暑い日々が続いていますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
どうも星野です。


今回は国語を教える者がよくぶつけられる、「何のために古典を勉強するの?」という疑問に、私なりの回答を与えるべく筆を執った次第です。
古典文学クラスタの方もそうでない方も楽しめるようにしていく所存ですので、最後までお付き合いくださればと。

 

まず「古典」とは、文学史的には明治時代以前に書かれた作品のことを指しますが、もう明治時代の文語体の作品(森鴎外の「舞姫」とか)も古典に入れても差し支えないと思います。


だって読みにくいんだもん。


そうです、古典文学の何が面倒って、「同じ日本語のはずなのに意味がさっぱりわからない」という点に尽きると思います。

そもそも日本語のルーツは何かわからない、とされています。
南方の言語も北方の言語も中国大陸の漢字文化もぜんぶごちゃまぜになっているそうなので、どこの言葉から現在の日本語ができたか、はっきりしないところが多いとのこと。
ですが長い時の流れのなかで言語文化が醸成され、時代ごとに様々な意味や形式の変化を遂げながら現在のような日本語になったのだということは確かです。

 

ですから、その時代の文化的背景や言語感覚がなければ古典文学が読めないのも当然なわけです。

 

しかし中学校や高校では否応なく読まされる。


どうしてでしょう?

 

そこには、豊かな国語を学んでほしいというメッセージが含まれているのではないかと考えています。

 

古来から様々な人が、多彩な表現を駆使して意見を述べたり想像を膨らませたりしてきました。
その一端に触れることで、生徒ひとりひとりのなかの価値観や考え方がちょっとだけでも変わるかもしれない。
ひょっとすると、その生徒の将来を左右するかもしれない。
未来の可能性を広げることに、もしかしたらいちばん貢献するかもしれない。
そんな効果を期待しているのだと思います。
もちろん、速効性のある学問ではありませんし、いつどこで、どんな形で役に立つか全くわからない学問でもありますから、生徒の皆さんは「受験のため」とか「学校で読まされるから」とかその程度の認識になってしまうのが当然だと思います。
しかし、古典文学の真の面白さに触れたら、きっと「どうして作者はこれを書いたのだろう」とか、「私に何かメッセージを投げかけている」と思うでしょう。
そこからが古典文学の真の面白いところです。
作品について調べ、独自の読みを展開し、互いに議論を交わすことが楽しくなってくるはずです。
あるいは作品に没入して「このシーンが良いよね!!」と熱く語るのも素敵ですね。
何にせよ古典文学の真の面白さというのは、自分で見つけるものなのです。
私が何を言っても伝わらないかもしれません。
ですが心を開いて、古典の世界に浸ってみることによって、見えてくる景色は違ってくるのです。
単に「学ばされているだけ」の国語から、「もっと知りたいから自分で学ぶ」国語へと転換すれば、きっと世界の見方が変わると思います。
現場の先生方には是非古典文学の面白さが伝わる授業をしていただきたい(そして、私もしなくてはならない)ですし、生徒の皆さんにもアンテナを張る努力をしてほしいと思います。

 

これから夏休みが始まります。
長期休みの間に、是非古典文学の世界へトリップしてみてください。
きっと新たな発見がありますよ。

 

というところで今回はおしまいです。
伝えるのって難しい。
それでは、また。