考えることをやめない、言葉にすることをやめない。それだけでだいぶ心が落ち着く。どうも星野です。
今日は言語という漠然としたものについて語ろうと思います。
きっかけは、某テレビ番組で見た「KY」と「エモい」についてでした。今の十代は「KY」とは言わないそうです。どうやらすっかり死語になってしまったようで……。一方「エモい」(「感傷的」を表す「エモーショナル」から派生した切ない気持ちなどを指す言葉)は今権勢を誇っているようで、どこでも聞ける言葉となっています。
どちらも若者言葉ですが、この流行の入れ替わりの激しさは何なのでしょう?
それについて私が大学で学んだことを踏まえつつ持論を展開していければと考えております。
しばしお付き合いください。
まずはこの論を進めるにあたり、参考になる言語学者の理論を提示させて頂きます。
フェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913)の理論です。
ソシュール以前は、まずモノが存在し、そのモノに対してふさわしい名前がつけられたと考えられてきました。例えば、もこもした生き物が来たから「羊」と名付けた、というふうに。
しかしソシュールは「まず言葉ありき」と考えました。
どういうことかと言いますと、「言葉を使うからこそ意識の中にそのモノが表れる」ということです。
高校時代大好きな先生がおっしゃっていたのは「虹の色は何色ですか?」というやつです。
あれって、どこまでも細分化できるだけでなく、どこまでも簡素化できると思いませんか?
実際に虹は3色という文化や、6色という文化もあるそうです。
(※注意しておきたいのは、色を多く言い表しているからといって必ずしも優れた文化ではないという点です)
虹の色を何色と呼ぶかは言語によって決まっています。
また、世界中には色の名前がたくさんありますよね。
それらすべてを使っても、この世のすべての色彩を言い表すことは無理でしょう。
このように言葉を使って世界を切り取る作用を「分節化」と呼びます。
ソシュールは「世界を言葉によって分節化することで、私たちは世界を認識している」と言ったのです。
つまり、言葉を使わないと世界について考えることができないのです。
このあたりは敬愛する内田樹さんも「寝ながら学べる構造主義」でおっしゃっていました。
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私は8年越しくらいで買いました。遅い。
閑話休題。
ソシュールは言語を「記号のシステム」と考えました。
我々が言葉と呼んでいるものは、「ラング」と「パロール」に分けられるとソシュールは説いています。「ラング」は言葉単体(「今日」「暑い」とか)を、「パロール」は実際の発話(「今日暑かったよね」とか)を指します。
「ラング」はさらに「シニフィアン」(音、先程の例で言えば「kyou」とか「atsui」とか)と「シニフィエ」(意味内容のこと)に分かれます。
ここで押さえておきたいのは、言語には先程の「切り分けかた」の恣意性のほかにもうひとつ、「意味付け」の恣意性があると言えるということです。
先程の例で言えば、「今日」という単語の音と意味の間に相関性はないということです。「いま」って言い方もあるし、英語圏にはtodayという言い方もあるわけだし。何も「今日」という言葉が「kyou」という音で「今過ごしている1日」を指すことに関連性や必然性がないのです。
だから言葉には二重の恣意性があると言われています。
言葉って不思議ですよね。
そんな厄介な「言葉」でしか考えられない私たちが、新しく「言葉」を作り出す営みとはどういうものかを考えてみたのです。
最初に提示した「KY」と「エモい」の共通点は若者が使いだした表現、つまり流行りの言葉であるという点です。
どちらも若者の間でなにがしかの需要があって生まれたのでしょう、だってそうじゃなかったらわざわざ分節化する必要はないはずです。
そこから、2000年代の若者には空気を読むということが重要事項で、2010年代の若者には感傷に浸るのが大切なのだと考えられます。
その時々のニーズに合わせて言語は産出されるのです。
しかし言葉のなかには「死語」となってしまうものもあります。
それは何故か?
「KY」の例を見てみましょう。
2000年代の若者にとっては、自分が集団の一員であるという証に「空気を読むこと」(和を乱さないこと)が求められていたのでしょう。
集団の基準から外れない。それが求められる時代性だったのかもしれません。型にはまって均質化した存在が理想だと。
だからあれほど大々的に「KY」という言葉が流行ったのではないでしょうか。
それに対して2010年代では、「他と異なること」のほうが自己意識の中で重要視されるようになったという変化があります。
周りと差をつけたい。自分が特別であると思いたい。そう考えているからこそ、「KY」は死語になったと考えるのが自然でしょう。
その変化の中で「エモい」という感傷的な表現は、自分の感動したこと、見聞きした体験をそのまま伝えたい心理に依っているように思えてなりません。
「インスタ映え」という言葉に代表されるように、現在は共有することがスタンダードな社会になっていますから。
情報というものの価値が相対的に大きくなっているのでしょう。
まあ、私の印象に残っている学校の先生ナンバーワンに輝いている某氏は、「縄文時代だって戦国時代だって情報が大切だったことは変わりがないし、変化が激しいことにも変わりはない」と言っていましたが。「情報基盤社会は『変化が激しい詐欺』によって生まれた」とも言っていたことを覚えています。
それを踏まえて考えると、「エモい」は「インスタ映え」に繋がる「共有」に関連する言葉として新しく生まれたと言えます。
他人と違う自分を演出するための、自分の感動を共有するための、時代を映す新たな「言葉」が生まれている瞬間に私たちは立ち会っているのです。
人間の深層心理はどこかで繋がっているという話もありますね。
もしそうだとすれば人間が言葉を作ってその感覚を共有できるのにも納得がいきますし、意識できない深いところで人類はつながっているのかもしれません。
オルフェウスの神話とイザナギの神話がよく似ていることも、「夢」も"dream"も①将来叶えたい目標、②夜寝ているときに見るもの、の2種類の意味を持つことも、一種の必然だった……というのは考えすぎでしょうか。
言葉が移り変わることには、私は別に悪い印象を受けません。
古語(文語)から現代語(口語)に変化していく様子は室町期にも見られていたという話を本で読んだこともあって、あまり変化を嫌わないのです。(生きていく環境の変化にはめっぽう弱いくせに。)
言葉は変化するものです。それがいい方向かどうかはすぐに、かつひとつの側面だけで決まることは絶対にありえません。
例えば古語の助動詞「き」「けり」は直接経験した過去と伝聞した過去を分けていますが、現代語の助動詞では「た」のひとつに集約されています。
これは完了の「つ」「ぬ」も含んでいる、とても多くの意味を含む助動詞です。
しかし、古語ではすべて分節化していたのです。
そこには言語の未発達、手紙など書き言葉中心という時代背景の需要があったのではないかと私は考えています。
それがだんだん口承文芸が発達するにつれて文語と口語に分化したと。
その結果助動詞はひとつにまとまり使い勝手は良くなりましたが、文脈で読み分けるという新たな負荷がかかるようになりました。
この変化が正しかったかどうか、判断することはできませんよね。
このように言葉は移り変わるのが必定というか、そういう運命なのだと思います。
変わることにいいも悪いもないと考えるのが一般的な言語学者のスタンスですが、私もそれと同じです。
いつか消えていく言葉でも、時代背景とは切り離せないものです。
時代性を考える上で非常に興味深いですよ、という話でした。
長くなりましたが、お付き合いいただきありがとうございました。
それでは、また。