ゆったりまったり雑記帳

その名の通り、雑記帳です。

西洋画と日本画〜印象派の観点から〜

やらねばならぬことを前にして人間がとる行動は、現実逃避するか腹をくくって取り組むか。
私は前者でした。
どうも星野です。


今回は行きたてほやほやの「至上の印象派展 ビュールレコレクション」(国立新美術館)と、2月に行った「横山大観展」(山種美術館)から、日本画と西洋画、特に印象派について考えたところを述べさせて頂こうと思っております。

 

 

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ビュールレのポスター。美少女と書いてセンターと読む。ハイセンス。



 


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写真はフォトスポットだったモネの作品です。

モネといえば横浜美術館に今年の夏、「睡蓮」が来ますね。

私も楽しみです。わくわく。

 

印象派とは、西洋絵画の一流派です。モネ、ドガルノワールが有名ですね。
この人たちの特徴は、ぼやけた輪郭の絵を描くことです。
それによってその場の空気感や光の感覚を画面に映し出そうとしました。
絵の具のチューブが発明されてから、屋外で絵を描けるようになったこともあり、最初は揶揄を込めて使われていた「印象派」という呼称も、次第に広く受け入れられるようになっていきます。
何故そんなに否定的に捉えられていたのかというと、かつては写実主義が主流だったためはっきりしない絵は本当に「絵じゃない」と思われていたらしいのです。
(ここに大きな逆説が存在するのですが、話のオイシイところなので後回しにします)

聞く話によると、西洋は空気中の水分が少ないから、日本と比べて視界がえらくクリアに見えるそうな……。
特にギリシャなど地中海に面したところはその傾向が強いみたいです。
行ったことのある友人の話なので、感じ方に個人差はあるかとは思いますが……それを前提として考えると、絵画の表現方法が、印象派以前のものに関してああいうはっきりとした輪郭と質感になるのは、気候的な問題も関係しているようですね。

今回のビュールレコレクションでもフランスやイタリアの「景観地」について取り上げられていました。
「景観地」とは、イタリア語では「ヴェドゥータ」と呼ばれ、街の思い出を残しておきたいという需要から写生が頻繁になされた土地のことを指すのだそうです。
グアルディなどは有名だったそうですね、実際の絵画も展示されていました。
そんなイタリアも地中海に面したカラッとした土地。空気中の水分量が少ないぶん、「景観地」としての魅力に溢れていたのではないかと推測できます。

そんなイタリアを、建物ではなくあえて水や空気の感覚に焦点を当てて描くことは当時大変革命的なことだったと想像に難くありません。
しかし当時はロマン主義が台頭し、ドラクロワから始まったロマンティシズムの追求、あるいは「写実性から離れた絵画でもいいじゃないか!」という動きが強まっていたこともあって、印象派が時代の最先端をいくことになるのです。

実はこの時期と近代日本画の興隆(横山大観などが活躍した時期)は前後しているのです。

じゃあ日本はどうだったのかというと、日本でも輪郭を描かない描画法が生まれていました。
「朦朧体」と呼ばれこちらも大いに批判されたそうですが、印象派のように主流にはあまりならなかったようです。

なぜか?

もともと独特な文化体系を形成していた日本では、どんなものでも象徴化、あるいはデフォルメして表現するのが主流でした。
言ってみればロマン主義的なんですね。想像の世界に委ねるという。
ロマン主義への反発から写実主義が出てきたというのが西洋と日本の大きな違いで、文学でもその傾向が非常に強いです。

そこには恐らく、日本人の感覚の根底にある「翳り」の意識が関係しているのだと思います。

谷崎潤一郎の著書「陰翳礼讃」はあまりにも有名ですが、象徴化することもその一部ではないかと私は考えています。
あえて言わない、描かない、色をつけない……そういった表現方法で「語らないけれどわかって」という日本独自の暗黙のルールを存続させてきたというのは確実にあると思います。
日本画でも余白があったり墨の濃淡だけで表現したりしますよね?
あれこそが侘び寂びであり、陰翳の感覚なのです。

実際に横山大観の屏風絵には、金泥を下地にしてそこに絵を描いた作品があります。
それは光が当たると画面がうっすらと輝くのです。
そういうのも間接的な光、あるいは陰翳という象徴的な意味を持つと考えています。

それと対比させながら考えてみると、日本画において重要視される「間接的な光」の感覚と異なり、西洋画における印象派の作品は「直接的な光」の質感を描いたのだと考えられるでしょう。
絵じゃないと言われ続け批判も受けた作品は、時代の潮流によって一気に画壇の脚光を浴びることになります。
かつては、こんなの絵じゃない、と言われていたものがモードになる。
歴史の流れとは因果なものですね。
そこに無常を見出すかは皆さんに任せますが、カラッとした空気、惜しみない太陽の光を画面に映し出すことをいわば「忘れていた」西洋画の歴史がここにあるのです。

直接光を描くことを意図的に避けていた日本画と、光を描くことを忘れ去っていた西洋画。
いずれにしても、長く愛され残るものは、何かを伝える(呼び掛けてくる)、自分にしか分からない何かを響かせてくるものだと私は思っています。
それは音楽でも文学でも絵画でも同じですよね。
「自分のために歌われた歌などない」と言ったのは確かBUMP OF CHICKENでしたが……それでも受信するメッセージは個々に存在すると信じてやみません。

なんだかとっ散らかったアイディアの塊です(後日加筆修正するかもしれません)が、お楽しみいただければと。
ビュールレコレクションはもうすぐ終わりです、ゴールデンウィークは混むのでお早めに!

それでは、また。