ゆったりまったり雑記帳

その名の通り、雑記帳です。

お笑いと読書と知的更新

ヒノキ花粉滅すべし。どうも星野です。病院の待合室でこれを書いています。みんな花粉症かよ……大変だなぁ……
今回は恩師と一緒に花見をした時の話から考察を広げていきたいと思います。  

 

「最近の教師は勉強が足りていない。女の子は知的好奇心が旺盛な印象もあるけれど……」
ぽつりと恩師が呟いていました。
どうやら、恩師の専門である国語の話を理系の若い先生にしても「さっぱりですね」といった感じでスルーされてしまうそうです。
あくまで恩師の職場では、の話ですから普遍的ではないことは承知の上です。
しかし由々しき問題だと思いました。
学ぶこと(新しいことを知ること)の面白さを伝えるべき存在が、身銭を切って知的更新を達成すべきにも関わらず、それを怠っているからです。
現場の教員の大変さは重々承知しております。書類も会議も山ほどあるし、下手をすれば学校に泊まり込むという現状があることくらい、私の耳にも入ってきています。
ですが自身のタコツボ(村上陽一郎先生の「科学者とは何か」で使われている、近代の生んだ専門家の状態を指した言葉です)に安住するだけでは、今後達成されるべき目標として挙げられている「社会に開かれた教育」や「主体的で対話的な深い学び」に繋がる教育を実践できるとは思えません。
でも時間はない。体力もない。
じゃあどうしよう。
そこで「知的に面白い」ってなんだろう、と考え始めたのです。

 

恩師は知的好奇心が旺盛なことを尊び、「聡明な人になりなさい」と言葉をかけてくださいました。
「聡明」の意味は「目と耳が鋭敏なことから、頭がよく道理に通じている様子」と広辞苑第6版に載っていました。
「聡」という字も、もとをたどれば音がよく聞こえる状態のことですし、「明」はよく見えることや曇りのない知恵のことだそうです。(新字源より)
若手の教員にはこれが足りないんだと、恩師はおっしゃっていました。
つまり五感を使って自発的に学び取る人が「聡明な人」であり、知らないことに対して貪欲になれる姿勢が無くては教育の質の高まりには繋がらないだろう、ということらしいのです。


恩師との花見のあとでこの話を企業で働く友人に話したところ、「理系は自身の狭い領域の中だけで話が完結してしまうから、間を繋ぐというか、理系文系どちらにもある程度理解があって理系の言葉をわかりやすく翻訳してくれる人材が必要なんだよな~」と語っていましたが……
これはまさに村上陽一郎先生の「科学者とは何か」で主張されていたことと全く同じではないでしょうか?
知らないことに目を向けられないことは今後の情報基盤社会、多文化共生社会において致命的な欠点になってしまうかもしれません。
「知らないから」サービスが受けられない。
「知らないから」自己実現ができない。
情報格差、学歴格差が今後一層大きくなっていく可能性が高い現代日本社会で生き抜いていくためには、知的にアクティブな方が有利なのです。

では教育はどのように与えられるべきか。教育を受ける側、与える側、それぞれがどのように教育と向き合っていけばよいのか。

 

それについては「お笑い」の例から考えてみるのがよいかと思います。

 

お笑いと言っても様々にありますが、例えば落語とか、もっと親しみやすいものだとしゃべり漫才(M-1グランプリとか、特集を組まれているあれです)が挙げられます。

お笑いには知的好奇心を刺激する作用があると個人的には思っています。
「次はどうなるんだろう」と展開を予測したり、「その言い回しで来るか~」と言語的に面白さを感じたり…結構リテラシーに訴えかけるコンテンツだなと。
年末にやっているM-1グランプリでも、敗者復活戦からその傾向があって、一人で納得していました。
しゃべり漫才の魅力は構成(ストーリー性、ネタの厚さと奥行き)、そして表現(ボケ方・ツッコミ方の言葉選びのセンス)だと感じます。

 

あれ、これって小説と同じでは?


ストーリー性に溢れているネタには自分も入り込めますし、言い回しが小気味良いネタでは言葉遊びや表現のしかたに面白さを感じるはずです。
もちろん視覚情報、聴覚情報の量や質は異なります。しかしそれを補って余りあるほどの類似性を感じるのは私だけでしょうか。

 

※私は言い回しが好きな芸人さんとして南海キャンディーズの山ちゃんとかバカリズムさんとかメイプル超合金カズレーザーさんを挙げますが、この人らはもはや語る必要もないほど天才ですね。

小説も漫才も、設定に入り込めるか(世界観が伝わるか)とか盛り上げ方とかキーになる言葉とか、共通項は多い気がしています。
どのような構成をするか、表現をどう選定するか。
小説もお笑いも、突き詰めるとどこまでも深くなるエンターテイメントですよね。
だからこそ知的に刺激が来るわけで。
後になって伏線が回収されていくような、「わかる喜び」みたいなのがあるからこそお笑いは真の意味で面白く楽しいんだと考えます。

 

このように、知的更新と小説における伏線回収とお笑いの構造って、実は似ているのです。
わからないものがわかる楽しさと驚き、出来事(知識)が繋がっていることに気付けた快感、すべて素地がないと享受できないものです。
けれど、あると人生がぐっと面白くなる。
脳がヒートアップすることをもっと探ってみていいと思うのです。

脳がフル回転する、ブレイクスルーが起こる、情報の洪水に身を任せて何が起こるか見守って楽しむ。
知的な面白さはそんなに難しいものではないのです。

 

タコツボから抜け出すとこんなに面白いことがある、というのはお分かり頂けたかと思いますが、どうタコツボから脱出するかということが問題になってきます。

自分の専門領域だけに閉じこもる、知らないことを知らないままにするのは不断の努力による……とは敬愛する内田樹先生の「寝ながら学べる構造主義」の冒頭部分です。さらに同氏はこう続けます。

 

『知的探求は(それが本質的なものであろうとするならば)、常に「私は何を知っているか」ではなく、「私は何を知らないか」を起点に開始されます。』

内田樹著『寝ながら学べる構造主義』(2002年)、12頁1行目

 

つまり知らないことに目を向けて、知らないことを受け入れて、それをどう克服するかという姿勢を問われているのです。
最悪わからないままでもいいでしょう、「児童から教えてもはう姿勢」を持てと教育実習先の担任はいつも言っていましたから。


教わることから教えることは始まるようです。不思議ですね。

 

「啓(ひらく)」という字もありますが、自身の「知りたくない」という気持ちを振り切って、どんなものにも目を向ける才能がある人は、教師に向いているのではないかと思います。
自分の好きなことだけ追究するのもいいですが、「聡明」に生きるためにはそれを絶ち切る勇気が必要です。
ただ言えるのは、絶ち切った先にあるのは今までとは別種の楽しさだということです。

 

今までとは打って変わってお堅い話題でしたが、誰かのもとへ届いていれば幸いです。
何かの参考になれば。
それでは、また。