ゆったりまったり雑記帳

その名の通り、雑記帳です。

映画「君の名は。」考察

深夜に考察するのをやめる約束をしました。エンジンかかって暴走しやすくなるので。
どうも星野です。
今回は今年の三が日に地上波初放送された新海誠監督の大ヒット映画「君の名は。」について考察したいと思います。
 
だいたいの人がご覧になっているかと思いますので、あらすじなど詳細は省きますが、視聴してからの閲覧を推奨します。
 
冒頭の、閉じた糸守と開いた新宿のシーンが印象的でした……両方に固有の生きづらさがある気がして。
そのふたつの閉塞感/息苦しさからこんなSF展開になるなんて誰が予想したでしょうか。新海誠は男女の恋愛という小さな物語と、世界の存亡に関わる大きなスケールの話が交錯するという、いわゆる「セカイ系」を代表する監督です。
単に「世界の存亡と男女の関わり」ってだけじゃないのがこの「君の名は。」という作品だと思います。
しっかり冒頭観てた人は、三葉が東京で瀧に出会うシーンで泣く確率が高いです(筆者調べ)。
時間のループおよびズレがいわゆる作中語の「結び」なんだろうと考えています。糸のイメージに時間の概念を乗せて、組紐として「歴史を編む」。時の流れ、生死の境を越えて黄昏時(誰そ彼時)に出会うことのロマンチックさが素晴らしいのです……
ここから本題。「隔り世」から戻るには「大切なもの」を置いていく(自分の半身を置いていく)とのことでしたが、瀧と三葉があの場所に置いていったのは、きっと記憶なんじゃないかと思ったのです。ユキちゃん先生の言う「世界の輪郭がぼやける」時間帯にふたつに分かれたのは、彗星とふたりの記憶(生きている証)なのでは? というのが私の考察の核です。
「忘れたくない人、忘れちゃダメな人」という台詞の示す通り、瀧の願い(三葉生存)を叶えるための鍵になるのはお互いの存在の認知……つまり存在の証明です。互いを知っていなければ絶対に三葉は死んでしまう。記憶はおぼろげで、名前もわからない。どんどん薄れていく。でもふたりは「会えばすぐにわかる」。
もはや運命としか言いようのない関係性にロマンを感じるのだと思います。
夢を観た後に涙を流すのは、記憶が薄れていく=存在の証明が希薄になっていくことへの悲しみや恐怖を無意識的に表出したものではないかと解釈しました。
夢は目覚めれば消える。前記事でも述べた通り諸行無常はこの世の理。互いの存在を確認できないことへの焦りや不安と、それを乗り越える強さを感じられる作品となっています。
瀧が手のひらに書いた「すきだ」の文字や「名前は」と訊ねる印象的なシーンは、存在を認めて受け入れたい姿勢なんじゃないかと思いました。それはアイデンティティに悩む若い世代を中心に響いた、かつこの映画の持つメッセージなのでしょう。「この世界で君に生きていてほしい」という、温かなメッセージ。
これは新海誠展でも感じました。新海誠展については後述しますが、監督の描く世界では誰もが生きることに様々な形で向き合い、葛藤し、最終的には(答えが出なくても)生活が続いていきます。
すれ違い喪失し、それでも人生は続く。
「時計の針は僕らを横目に見ながら進む」。生きている「今」も一瞬で過去になり「夢」と見分けがつかなくなる。それでも生活は続くのです。泣いて傷だらけの三葉が立ち上がり走ったように、私たちも歩き続けなければならない。そのなかで人は互いに近付き、離れ、「結び」を生む……そういう物語なんだと思いました。
結局関係が途切れたままで終った「秒速5センチメートル」を彷彿とさせる雪と桜の描写から、「結び」を再生させるラストへの運び方は、ハラハラしつつも目が離せなかったですね。
「一生いや何章でも生き抜いていこう」という歌詞の通り、「生活を続ける」ことを重視しているのだろうと感じたシーンでした。
人と時間の縁…深い趣があると感じませんか?
 
瀧と三葉は恋愛とは異なる次元で繋がった絆を持っている気がします、それこそTwitterみたいに顔が見えないけれど存在は承認している……といった感覚が近いのでしょう。
そういう現代の感覚にフィットした、でも現代人に必要なエッセンスを込めた作品…と言うべきでしょうか。

続いて新海誠展について。
 

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新海誠展のフォトスポット

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こちらが私の「君の名は。」腕時計と戦利品です(笑)
生きることを後押しされた、という感想が強く残りました。
空(夕日、雲、星、雨)から見える心の機微…すごく繊細な感情が風景に乗っていることがわかって、描かれていたものの意味が伝わってきました。
すれ違いの構造もちゃんと意味があるのです。
秒速5センチメートル」では出会えないまま終わります。これはすれ違っても愛し続けることの純粋さと苦しさを感じさせます。
止まった美なのか、ずっとそこに心が留まったままでいる切なさを味わった人も多かったのではないでしょうか。
でも「君の名は。」で遂に出会えました。願い続けてその結果として勝ち得た再会。それはただの再会ではなく、新たな生、いわば再生とも言えるのでしょう。
新海誠監督の作品には、喪失と回復とセカイ系というテーマが常にあるのだと思います。
喪失の美しさ、大切さ、そしてその喪失は誰にでもあるという肯定から、監督は様々な形で喪ったものを埋めようとする登場人物の目を通して「それでも世界は美しい」ことを表してきました。
ある意味で救済であり、ある意味で呪詛であり。
でもいい意味で契機になった「君の名は。」で、初めて自ら回復する過程を見せました。ここから先どんどん喪ったものに負けない存在が出てくると思うと震えてきますね。
これは戦慄か、歓喜か。
 
という一連の出来事を経て、私は世界がよりいっそう鮮やかに見えたし、音もクリアではっきりしてきたように感じます。ノイズが一気に取れた感じ。五感がフルに活動しているのです。大きなショック(いいことも悪いことも)から一定時間を置いて、それを客観視できるようになるとこれは発生するのでしょうか?
これを「再生すること」と呼ぶことにします。
私は学術が好きで、それは知的更新が起こりやすいからなのですが、更新という出来事もやっぱりこの「再生すること」を切望しているからなのかなと。
それは生き方の修正(価値観の再構築)であり、必要な変化のはずです。みんなそれを求めて生きているのかなとふと思いました。
ちなみに切望と絶望は紙一重だなと……変換していて思いました。何かを望むから裏切られて傷つくわけで。それが喪失。
それをうまく消化して自分の糧にするのが生まれ直し、生き直し、「再生すること」では? と考えたわけです。
人は(少なくとも私や周りにいる人たちは)基本的に良く在ろうとするし、反省したり自信を持ったり自分の長所短所と上手にお付き合いしようとしています。だから生まれ直し、生き直し…つまり「再生すること」はたぶん日常の出来事なんだろうなと推察します。
当たり前すぎて気付かない。時たまものすごい作品に出会ったり意見を戦わせたりひらめいたりしてそれを自覚するというだけで。
楽しいことも嬉しいことも、悲しいことも苦しいことも、「イレギュラーも後悔も丸ごとmix juice」(mix juiceのいうとおり/UNISON SQUARE GARDEN)にしてまぜこぜになったところから「再生」は始まるのでしょう。
 
最後は自分の話になってしまって申し訳ないです、そういう自分の「生まれ直し」「生き直し」感覚を生むからこそこの作品はヒットしたのかもしれませんね。
というところで今回は終わりです。
それでは、また。