ゆったりまったり雑記帳

その名の通り、雑記帳です。

愛と恋について 【覚書そのいち】

この時期どこも病院混んでる。
どうも星野です。
いろいろ考えるのは非常に楽しいです。
ということで今回は私のライフワークとも言える「恋と愛の違いについて」語りたいと思います。
 
恋は一方通行的なところがある気がしたのが最初のきっかけです。
だから和歌は「恋」なんだなあと感じたのです、あれは顔も知らないような相手に一方的に詠みかけるものだからです。
もちろん「恋」にも相手を想う気持ちはあるし反応を待つし対話的な部分はあると思います。
でも「受け取ってください!!!!!!」みたいな、押し付ける感じがどこかつきまとう気がしていて…
それに対して愛は、見返りを求めないで自己完結する印象があります。
私の気持ちがあって、それが伝わってなくても、叶わなくても自分が好きだからいい…って思えるのが「愛」なのかなって。
もちろん独りよがりな愛もありますよ。
それに自己満足の側面もあるから、恋と愛のバランスが取れてないとダメですよね。
だから「恋愛」なんだろう、というのが第一の気付きです。
恋はふたりじゃないとできません。
だから押し付けあいでも成り立つのでしょう、そもそもふたりいないとダメだから。
愛が生まれるのは一人から……とは星野源ちゃんの大ヒットナンバーですが、愛することはひとりでもできるのです。
物を愛するとか、自然や動物を愛するとか……
そう考えると盲目的でちょっと危うい感じもしてきます。
そんなわけで、星野源ちゃんの大ヒットソング「恋」は、なかなか的を射た歌詞なんじゃないかと思ったのが第二の気付きです。
「愛が生まれるのは一人から」と歌っているが、その通りだと思います。
「好きになるのに理由はない」とよく言われますが、愛情の根元を「好き」という感情とそれに伴う相手(対象)の存在を全肯定したい気持ちにあるということだと解釈しています。
友愛、親愛、博愛、狂愛、偏愛…愛のつく言葉は数あれど、そのすべては相手(対象)の存在を全肯定する姿勢からきているのではないかと思うようになりました。
だから「愛が生まれるのは一人から」…相手(対象)の気持ちはお構い無しに自分の想いをぶつけるのが愛ではないかと。
それに対して恋は、相手の存在を「意識すること」から始まっているのではないでしょうか。
「似た顔にも虚構にも」恋せずにはいられないのは、自分以外の他者と気持ちをぶつけあわなければ自己の存在を確認できない人の性質が関係しているのでしょう。
気持ちを通わせたい、振り向いてほしい、気持ちを向けてほしい。
愛は時にひとりよがりになるけれど、恋はある程度相手の反応が知りたい気持ちになるのでは?
そして恋のほうがその「相手と気持ちを通わせたい」気持ちの故に自己の認識とのズレで苦しくなるものだと最近わかりました、私事ですが(笑)
それを楽しめるのが大人というものなのかもしれないですね。
ちなみに恋と愛を辞書で調べたら、愛の項目に「恋慕うこと」と書いてあって、別のものだったはずなのにもうどうなってんだって感じだったのですが、広辞苑第6版(電子辞書)には恋の項目に「故人など会いたくても会えない人に対する思慕の念」みたいな記述がありました。
ますますわけがわからない。
そこに「忘れ去られてもいいから、私は想い続ける」という一種の諦念や、「ぜんぶあなたの思い通りになればいい、私のエゴは捨てる」という覚悟があるのが愛なのかなと考えました。
だからこそ愛で人は殺せるんだと思う。歪んでしまうのも愛ならではなのではないでしょうか。
対して恋は相手(対象)ありきだから臆病にもなるし経験するとつらくなるものです。
対人関係を前提としているから仕方ないですよね。
でもそのぶん社会性の成長に繋がるものでもあると考えます。
「恋愛」という言葉が日本に昔からあった恋と、近代になって入ってきた愛をひとつにまとめたのはあまりに大胆というかなんというか……
そして次のきっかけが、ツイッターで大人気のたられば氏(@tarareba722)が発していた「愛は永遠を語ってはいけない」という言葉から、その理由を考えてみることにしたことです。
私なりの結論は、愛は「形が変わる」からだらというもの。
報われないこともままあり終わりが見えやすい恋に比べて、愛は相手からの承認を得られたり自分で価値付けできたりと永遠を「錯覚しやすい」んだと思います。
もちろん恋も愛もいつかは終わりが来るんだけどね。諸行無常はこの世の理。
恋は儚く、愛は強か。今までの私自身の経験と人間観察の結果からそう感じます。
終わった恋をいつまでも思い出すのは、恋に「美」の性質があるからだろう。恋する姿は美しいし恋は人を変えるだけのパワーがあるからだと思います。
一方で愛はそれ自身が形を変える。いろんな「愛」を形容する言葉があると前述しましたが、それがその証拠と言えるのではないでしょうか。
だからこそ愛は歪むのです。
認められているから、気付けば感情が肥大し傲慢になるのかもしれない。どうなろうと構わない、そんな覚悟がある愛は尊くもなるし卑しくもなるんだと思う。
現代に生きる私の感覚で言うと、恋と愛に優劣はないし、どっちもどっちな気がします。
近代文学で言えば、太宰の心中は本当に愛の形なのかとか、谷崎の恋多き人生のなかに本当の恋はあったのかと問われても答えはありませんよね。それは当人が決めることです。
でも狂おしいほどの恋を経験して、友の死に関わった「先生」を「愛さずにはいられない人」と表現した漱石はある意味正鵠を射ていると考えます……恋と愛は明治期を経て混ざりあい、もともと別のものだったふたつは渾然一体となって近現代に生きる人々を翻弄しているのだから。
そこから発展したのが、「尊い」という言葉についての考察です。
推しやら好きな対象、愛情を向けているものが可愛かったり素敵だったりした時に発されるあれです。
私はあまり使わないのですが、私の中ではそれにあたるのがおそらく「畏れ多い」なんだろうなとふと思ったのです。
私流本気の恋(思慕)はどこまでも平安歌人流だから「忘れじの」とか「君がため(を)」とかわかりすぎるのです……が、そこには「相手の応答を待つ」感覚があると思っています。
相手の応答を待つ――好きだと言ったら自分もと返してもらえること、おねだりしたら愛を与えてくれること、そして自分も愛を注げること。それが私にとっての恋で最上級の愛情表現。恋こそが私のなかでは愛を上回っているみたいですね。
「畏れ多い」人はたくさんいらっしゃいます。画家から思想家まで幅広くいるけれど、その人たちには見返りを求めません。だから自己完結の「愛」。彼らのことは胸を張って「好きです」と言えるんだけど、恋してる相手はちょっと無理かな、相手の応答が気になるからです。
じゃあなぜ「愛」する対象には「好き」と言えるのか。それは「畏れ多い」、つまり心理的距離がある(横に並び立てない)感覚があるからだというのが実感です。恋してる相手とは対等でいたいという願いと、単に「畏れ多い」人は崇めたいという思いと、確実に隔たりがあることに気付きました。
ここまでが私が生きている間に考えたことのあらましです。
これからどう形が変わっていくかは謎ですが、また続きが浮かんだら書きます。
それでは、また。